おもいで(その1) 軍人として生まれて 志摩川友重

 はじめにご紹介する前生の記憶は、志摩川さんによると恐らく第二次大戦中に軍人であった前生の記憶が中心となります。今生を終えてその死後の世界での記憶にまでつながります。この「おもいで」は次の霊界での「おもいで(その2)」に続きます。・・・(管理人)

 私は兵舎の自室の椅子にすわって、今日は少しやりすぎたかなあなどと思いながら、窓の外を眺めている。

 私は元来他人に厳しくあたるのは性格的に好きではないが、部下達が軍隊に入ってきて私となんらかの縁ができたいじょう、他の隊に異動させられてもこの狭く厳しい社会の中でなんとか要領良く生きぬいていってほしいと願っているので、ついつい厳しい態度に出てしまってきた。 

 この小さな世界に逆らうことは自ら死に向かっていくということを意味しその家族までもが犠牲になっていくということをよく知っていたので、たとえ自分が鬼と言われようともそんなことは構わず、この中での行き方を身をもって体得し落伍者のでないようにと思い、部下達の行動や態度などについて特に厳しくあたってきた。

 まず上官に対する態度から考えてもらうことにした。最近は召集されて間もなくこんなところにまで配属されてくることが多くなってきているので、配属直後は何も知らず上官にも気楽に話しかけてくる者もいる。これでは他の者から依怙(えこ)びいきしているようにとられると命令系統に支障が出るし、場合によっては寝込んだり身体になんらかの障害をおこさせるほど暴行を行う上官もいるので、そんなめにだけはあわせたくないので早く気付いてほしいという思いを込めながらほっぺたを往復即く。

  本当は力を入れたくはないのだが、そうしないとこの組織をあまくみてしまい、この奇妙な社会に適応できないうちにひどいめにあうことがあるかもしれないという心配のあまり自然に力が入ってしまう。
 新入りの優しい目が突然怯えの目に変わる。泣き伏したまま動かない者もいた。自分が相手のためを思って叩いたということをわかってほしいとは心の隅で願っているのではあるが、相手の気持ちなどは少しも考えてはいない。
 ただ厳しくばかりしていては部下達の希望も何もなくなってしまうおそれもあり、すぐ下の部下に助け役を命令した。私が部下達を怒っているときの宥め役としで出てもらうとともに部下達の相談役としても活躍してもらうことにした。
 部下に対する私の配慮とはこれぐらいなものであろう。私が直接部下に行なってきたことを思い返せは厳しいことだけである。みな私を嫌っているだろう、誰も私を許そうとする気持ちなんか持ってはいないだろう。でも全員、それがだめでもせめて自分の部下達だけでもみな無事に日本に帰ってほしい。

 

 私は自分を堅物だと思っていたが、私よりも上手がいた。その人物は私の前で『共産主義が正しいと信じる。』と最後まで言い続けていた。私はどちらかというと自由を好む方なので他の人の主義主張まで強制的に変えさせるつもりは全然なかったが、あまりにも公然と言い張るのでこの者と家族の生命が心配になってしまい、信じるのは結構だが主張だけは遠慮してくれとお願いする破目にまでなってしまった。
 しかし彼が主張していることが知れわたってしまったらしく、私の手のとどかないどこか知らないところに転属させられていった。
 私は彼が力説している内容はよくは理解できなかったが、彼が正しいと信じていることをどんな境遇に合わされても曲げずに自分の意思を最後まで通すことができることが羨ましかった。私にとって彼の行為は新鮮であり、彼の無事を祈りながらも彼のためにはなにもできない自分の無力さを知った。

 

 私が今まで何不自由なく暮らしてくることができ、外地での生活もなんとか楽にのんびりしていられるのも、すべてみな親のおかげである。小さい頃から親の教育がいきとどき親から与えられた道を進んできたようなものであるので、以前から自分一人では何もできないのではないかという不安といつまでたっても親の傘の下で暮しているという不満が入り乱れていて、感謝の気持ちなどはほとんど無に等しかった。ただ親から離れたいがなかなか離れられないという思いだけが自分の心の中の大部分をしめていた。
 日本の敗戦がわかって部下達の帰国の手配が完了しその準備が整ったとき、自分が中国に残ると決心したことをいちばん信用していた部下に告げた。親のことは自分の兄弟達がいるから大丈夫だろうと思った。私はここで親しくなってしまった中国の娘と暮らすことにした。私の日本への未練を断ち切るために、私が戦死したことにしておいてくれとそのとき頼んだ。親が悲しむかもしれないとは思ったが、いままでつもりつもっていた自分の思いを実現するために一切の自分の過去は忘れ去る覚悟であった。これが自分で私自身の進む道を決めた最初の出来事であった。

石庭 by Shimagawa
石庭 by Shimagawa

  終戦直後のこともあって、日本人がひとりここに残っていることが知られると酷いめにあわされるのではないかという心配があったので、その娘の家の中で隠れるように二人だけで住んでいた。そんな状態なので私は働きに出ることもできず、彼女一人が日中畑に出て働いていた。中国語がわからないこともあって、誰かが訪ねてくると恐怖のあまり隅のほうで小さくなっていて、彼女が帰ってくるのが待遠しく、まさに母の帰りを待つ赤ん坊のようであった。
 お互いに全く言葉が通じないので、思っていることを説明するのにかなり苦労があったし、本当にわかってくれたのかどうかも心配であった。ある日突然彼女が怒りだしはじめたので、追い出されるのではないかと心配したが、どうも私が家の中にばかりいて働きもしないので怒りだしたらしい。それで私は中国語を話せないので日本人であることがすぐばれてしまうだろう、そうなった場合どんなことになるかわからないし、君にも迷惑をかけることになるかもしれないと身振り手振りで一生懸命説明をした。

 ある日彼女は私の前に一人年配の女性を連れてきた。私はそのときもうだめかと思い、何が起こっても慌てないように観念を決めていたが、いつになっても私の身には何も起こらない。

 私がその女性に馴れたころ、私がその人に何も危害を与えないので安心したのか、彼女はいろいろな人を私のところまで連れてきて私に紹介した。私を見るみんなの目はきれいに澄んでいた。

  私と言葉が通じなくても、私のことを日本人と知っても、そこの人々はみなと同じように平等に接してくれた。私にとっては天と地がひっくりかえるほどのショックであった。私の部下達が日本に帰る際の私を見る目とくらべると何と優しい目をして私を見るのか。私はここの人々はみな神様だと感じ、全身心も体も洗い清められるのがわかった。

 私は彼女が怖がらないように注意しながら鍬を持って、畑を耕したいと身振り手振りで彼女に伝えた。なにしろ初めて鍬を持つので耕してみてもなかなかうまくいかず、見兼ねた彼女が一人の若者に私の指導を頼んできた。私に付きっきりでいろいろと親切に教えてくれたので覚えも早く、きれいに耕せるようになった。

  私が楽しそうに耕していると彼が何か日本軍に関して嫌なことでも思い出したらしく、私に向かって怒鳴りながら鍬を振り上げた。私は思わず彼の目を見ながら自分の持っていた鍬を畑に放りだしてその場に座りこんでしまった。彼は私が抵抗する意志と逃げる意志のないことがわかったのか気持ちが通じ合ったのか、彼女らが心配してとんで来たころには、二人で抱き合って泣いていた。

 

 ある天気の良い日、濯漑用水路の横を歩いていると女性が叫んでいるのでよく見ると、小学生ぐらいの男の子が水に溺れているのが見えた。私は石垣に注意深く手をかけながら男の子の方へおりていった。流れはものすごく急で男の子はかろうじて草のようなものにつかまっている。私は身体半分水の中につかりながら男の子を流れの中から引き出した。男達が大勢集まって上から手を伸ばしていたので、男の子を下から押し上げたが足場が悪くバランスを崩してしまった。
 運良く男の子の手は上の男達につかまえられたが、私の身体は首から下がその流れの中に入ってしまい私は男の子の足にぶら下がる格好になってしまった。私の身体の重さと流れている水の強い抵抗力が全て男の子の足にかかっているので、私がぶら下がっているために男の子の身体にものすごい激痛が走っているのがよくわかった。
 私が生き延びたいがためにこれ以上男の子を苦しませることは、男の子のためにも、ここでお世話になった神様のような人々のためにも、人間として生きていくためにもいけないことだと思った。私は自分の手の力を抜いた。水が鼻と口から入ってくるのと、用水路用のトンネルの中をもの凄い勢いで流されているのがわかったが、不思議と苦しくなかった。

 

 気がついてみると、私は彼女の家の中にいた。まだ自分自身が生きているみたいである。下を見ると私か寝かされていて、彼女が私の身体におおいかぶさって泣きじゃくっている。彼女に話し掛けたいが全然気がついてくれない。何日かそういう状態が続いた。

 ある若者が弔問にきたときどういうわけか私か彼の身体の中に入ってしまい、生きていたときと同様にふるまってみたところ、彼女が突然彼に襲われそうになったと思い込んだらしく、彼を家から追い出してしまった。彼は何か起こったか事態がよくのみこめず唖然としていたが、私は彼に悪いことをしてしまったと思った。彼女の心にもかなり傷を負わせたようである。
 自分が生きているという感覚はあるのだが、どうも私はあのときからもとにもどれないような状態になってしまったようだ。でも考えたり悩んだりは現にしている。ただ誰とも自分の思いや悩みを打ち明けたり普通に会話することさえできない。他人が目の前にいても意思の疎通ができない。空間に浮いているだけで、単調なさびしい世界である。それにもうもとには絶対にもどれないのではないかと感じたとき、彼女にはたいへん世話になりながら何の恩返しもできなかったことについて初めて後悔をし、なおいっそうさびしくなった。

 

 ある日、家の中に僧侶が入ってきた、彼女がお経でもあげてもらおうと思ったのだろうか。その僧侶が私の方をじっと見上げている。どうも彼には私が見えるようで、私を認めることのできる人間が現れたと思うだけでうれしくなった。僧侶は彼女に悪霊がいると言っているが、彼女はただきょとんとしているだけである。
 そういえば喋っている言葉が理解できるなどと思っていると、僧侶は私の方を睨み上げた。その悪霊というのは私のことらしい。別に私には悪さをしようという意思はまったくなかったので、私の存在がわかるのなら私が言えばわかるだろうと思って、一生懸命その僧侶に自分は悪霊ではないと伝えようと頑張った。彼には伝わったようだが、嘘をつくなと断じて取合ってくれない。僧侶が手の指をいろいろと組替えながら呪文を唱えると間もなく私の方へ何らかの力が向ってきた。そのとき私の防衛本能が無意識のうちに働いたのか、お互いの力がぶつかり合った。思いもよらず戦うはめになってしまった。
 しょうがないなあと思いながら下を見ると僧侶が倒れている。右側を向くと倒れているのと同じ僧侶が私の横の空間にいて、彼の目はギラギラひかり顔付きも険しく邪悪そうに変わっている。解放されたおかげで何でも俺の思い通りになるという思いが彼の方から伝わってきた。まだ戦うのかと思って身構えると変な声で高笑いしながらどこかへ行ってしまい、あとには静寂だけが残った。

 そこで私の人生の最初から最後までの私の思い・考え・言動・行動などが一瞬のうちにまるで今自分が実際に体験しているかのように、正確に完璧にもう一度繰り返された。複雑な思いをしながらも感心していると、まるで罪人を扱うような高飛車な態度で私の人生についてけなし始めた。
 私は頭にきて、「どんな人間だってみな彼等なりに頑張って生きているんだ。私も大勢に迷惑をかけてしまったが自分なりに一生懸命やってきたつもりだ。それなのにその態度はなんだ。」と怒鳴りながら睨付けた。すると私を案内してきた者は、気が抜けたようになり、何も言えず動けなくなってしまった。しばらくたったあとで、体格の良い力のありそうな者が私の目の前に現れると周りの雰囲気が一瞬に変った。

 

 少し薄曇りかなと思われるところで、周囲には人が沢山いる。しばらく様子を見てみると、この世界では意志力の強い者が勝つようだ。私の力はここではかなり強いようで、どのくらいのものか試してみた。私に逆らうことができる者違はここら辺りにはいないようで、私か試しにいろいろと思ってみると、みなその通りに動いている。
 あちらこちらで力のある者が弱いものを従えて沢山のグループを作っている。どちらの長も欲望の限り、やりたい放題のことをやりまくっている。あれだけ暴行を加えれば飽きるだろうにと思うがそうでもないらしい。私には自分のグループを大きくして勢力を増大しようという欲望はなかったが、酷い目にあっているのは黙って見てはいられなかったので、手近のところから自分のグループに引入れていった。
 グループに入れた者達で醜い姿に変えられていた者はもとの人間の姿に変えてやり、暴力をしない範囲でしたいままにさせてあげていた。この世界は何をやっても味気がないところで、私のグループに入れられた者は最初は欲望を満たすために一生懸命になっていても、やがて何をするのも飽きてきて寝転んだりして何もしないようになる。

 そこで私はどういうつもりか、ぼおっとして動こうとしない者達に向かって、純粋で綺麗な光をイメージしながら彼等の身体にその光を重ねてみた。すると光りと重なると同時に彼らはスウッーと消えていなくなってしまうのだが、その時だけは空しいだけの世界の中で何か楽しい気分を味わえた。そんなことをやっていると自分のまわりに誰もいなくなりかえって寂しくなってしまうので、他で苛められている者達を集めてきて新しく自分のグループをつくり、その時期をねらってまた同じことをやってみた。

 そんなことを何回も繰返し行なっているうちに突然まわりが明るくなり、自分が以前とまったく違うところにいるのに気が付いた。ここは特にめだったような争いごとはなく、身に着けている物も清潔ではあるが、不平不満がいろいろあるようで愛想はみな良くない。まともに話し掛けても理由もわからず怒鳴られてしまい、誰とも普通に話合うこともできない。
 ここでは私の念力が全く通じないので、私の意志で光を相手に重ねることもできない。そのため私自身のただ一つの楽しみが奪われてしまったのと同じことであって、なおかつ自分と心を交わすことのできる人もいなかったので、何もすることもなく不貞腐れて横になってしまった。この前私をあの薄暗い世界に行かせた張本人が様子を見に来たので、「さっきまでいた世界の方が楽しかった。あの世界に戻してくれ。」と言いたい放題の文句をぶつけた。

 すぐに希望通りあの世界に戻されたが、こんどは自分の例の意思の力が用をなさず外界に対して全く無力になっているのがわかった。あっと言う間も無くすぐに誰かの念につかまってしまい、ものすごく痛いめにあわされて私の姿は動物のようなものに変えられていた。自分の意思で動くことは不可能で、相手の思うがままになっていた。
 そのときの絶え間の無い痛さと苦しさは筆舌も及ばないものであったが、あるときその苦しみが消えることがあるのに気が付いた。痛みと苦しみから逃れたいという欲も無く、私を操っている相手への恨みを忘れているときに楽になるようで、なるべくその状態を長い間維持できるようにそのことだけに意識を集中した。
 

 そのうちに、相手の望むままに操られていて酷いめに合わされているのはわかるが、その状態でも全く何も感じないままでいることができるようになった。
 心が落着いてくると相手の考えていることがわかるようにまでなってきた。
 腹を立たせて痛み苦しみが時々復活させたりしながらも、だんだんと相手が理解できるようになりはしめた。
 そのころには、自分の身体がどんなめにあっているかは認識できても、自分の身体が有って無いような感覚になっていた。
 相手のことを思い心配する気持ちが強くなってくると、こんどは今まで経験したことも無いほどの幸福感に満たされるようになっていた。これが至福の状態なのかと思えるようになったときにはもう何も恐れるものが無かった。

 また例のあの体格のよい者が私の様子を見にきて、私にいろいろなことを言ってその反応を調べている様子であったが、私にはそれに反発したり腹を立てたりする気はもはや無く、何を言われようと心は穏やかで至福感に満ちていた。先程まで私を支配していた者が夢からさめたようにごく普通の人になっているのがわかった。いっしょに明るい世界に向かった。

 彼は彼自身にあった世界におろされることになってるそうで、途中で彼と別れることになった。私は彼がどういうところに行くのか少し気になったが、彼の方は私とは初対面だと思っているらしく、お互いに軽い挨拶で別れた。

 

 平和に満ちた穏やかな心はもともと誰でも持っていて、アンバランスな知識・固定観念・価値観・プライド・我欲などを捨て去ったときに本来持っている自分の真の心にたどりつけるということ、それにそれはこんなに近いところにあったということに気が付いた。今向かっている世界について何の期待もないかわり何の不安もなく、真に素直な心でことの成行きのすべてをお任せしていた。

 二度と彼女に迷惑をかけないようにと何もしないでぼうっとしていると、私と同じような種類の仲間らしき者が近付いてくるのがわかった。彼は私の側に近付くといきなり「もうそろそろ行くべきところへ行ってもいいだろう。」と言い出した。私は『何だ、行けるところがあるなら早く教えてくれればいいのに。そうすればあの僧侶も魂が助かったかもしれないのに、自分だって精神的にこんなに苦労しなくてもよかったのに』と思いながらも素直に後に付いて行こうとした。

 すると彼は「彼女をそのままにしておいていいのか。」と言ったので、私はむかっとして『いまさら何をしろというのか。もう何もできやしないじゃないか。彼女にもう迷惑をかけたくないんだ。』と腹立たしく思いながら、その言葉を無視して彼のあとに付いていった。

青い地球
青い地球

〝 管理人の所感

 

 第一回目の「おもいで」・・ いかがでしたでしょうか? はじめから学ぶところのとても多いものでした。

 前半の部分では軍人として日本に生まれ、部下を思いやる上司のこころがよく伝わってまいりました。その中で一人の部下が共産主義者で、その政治体系を絶対的なものとして信奉していました。

 軍事下に於いて共産主義を主張するなどとても危険なことです。まして軍隊内では自殺行為です。一つの主義主張に嵌まったものは、それがひとつのアイデンティティとして自分の価値を同一化することで自分の存在感を主張することがあります。

 

 普通人は日々考えている自分が本当の自分だと思っています。思考という行為の多くは、頭の中の言葉によって為されます。そして言葉とは、人間がそれまでの経験によって記憶した事柄に名付けることで発明してきたものです。

 

 考えている自分のマインドが、本当の自分であればそれも致し方ないのですが、考えている自分は本当の自分ではありません。考えている自分というのは人間がそれまでの経験の脳(肉体)内記憶という生まれてからの過去の自分の時間枠内だけの存在です。思考の中で生きている限り、人間は肉体意識を超え本当の自分、生き通しの自分に到達することができません。一定の制限である善悪という人間が作り条件づけられた行動に縛られることとなります。

 ですから思考に囚われている限り人は、真の自由と真理を獲得することはできません。

 

 真理は常に今にあり過去にも未来にもありません。

 一方思考は今を生きることができません。 

 思考は過去を悔い、未来を憂うのです。

 

 私たちがこれから向かう「新しい地球」はこのような思考空間の希薄な世界です。イデオロギーを含めた善悪という制限のない世界です。すべての記憶の条件付けから解き放たれた世界です。善悪という決めごとは一切ない世界です。善悪の概念がないので、善悪である法律はもちろんのこと、憲法すら存在していません。

 ただ一つあるとすれば、それは進化に向かう運動のための波動の法則という正しさに向かう法則です。それは意識の進化成長に向けていざなわれた法則である「宇宙の法則」と換言することができます。またそれは「進化の法則」とも換言することができるということです。

 善悪は人間が勝手に決めたことであり、正しい正しくない(間違っている)とは異なります。

 

正しいこととはこの唯一絶対の愛と和の「宇宙の法則に則って進化に向けて振動している運動」なのです。

正しいこととは “進化に向けた運動” を言うのであり、決して固定されたものではありません。真理もまた然りです。

 

 この法則の手の中で私たちは生かされているとも言えなくはないものです。

 もっと言えば、正しいこととは人の意思の入っていないものです。

 一方、善悪は人の意思の入ったもので私たちが黒は白だと言えば黒は白に変わります。人間が共産主義は善くて、資本主義は悪いと決めればそうなります。善悪とはただそれだけのことです。このように善悪とは、かくも勝手気ままなものなのです。

 

「進化に向けた運動」「進化へのいざない」・・・ この正しいことの方向性を示唆する目的で現れてくるものを真理の普遍性と呼びます。スピリチャル的にはこれを「直観」と呼ぶことがあります。

 

 そしてクリシュナ・ムルティも言うように、
 真理は常に動いていて定まったものではありません
 参考記事:・クリシュナムルティの恐れ

 
 真理は正しい方向性という絶対性を持ちますが、同時にそれぞれの正しさ(進化・成長)のためには*普遍性をもって私たちの前に出現するのです。それゆえに普遍的真理の表出は、人それぞれによって異なるのです。

 *普遍性とは「どこにでも同じように存在する」ことですが、真理が普遍性をもって人に現れるとき、それぞれのアプローチをもって現れるということです。

 

 それなのに私たち地球人は物事の善悪にこだわって、その概念の決まりのままに生きようとします。その結果として常に真理を拒んでしまっているのです。

 人間の思考とマインドが決めたことに正しいことは一切ありません。よって人間は善悪を規定することはできますが、正しいことは人間には分からない のです。

 

 あらゆるイデオロギーも、あらゆる宗教も定まった条件をもとにしていて、自我の拡大のために人々をコントロールしようと動いています。 それは既にアイデンティティの形成となり、その自分と同一性の価値観を人に押し付けようとします。コントロールの始まりです。

 

 親に虐待された子はそれが親の愛だと思いこみ、この記憶をもとに大人になってから3分の1が自分の子供を自分が受けたと同様に虐待するようになることが、心理学の統計上も判っています。

 正しいか間違っているかの答えは、昔から設定された記憶の中に、善悪の判断として条件づけられてしまっています。

 しかし正しい正しくないは善悪とは異なります。新しい地球に生きようと志す人は、この呪縛から放れなければなりません。

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『そこで私の人生の最初から最後までの思い・考え・言動・行動などが一瞬のうちにまるで今自分が実際に体験しているかのように、正確に完璧にもう一度繰り返された。複雑な思いをしながらも感心していると、まるで罪人つみひとを扱うような高飛車たかびしゃな態度で私の人生についてけなし始めた』
 私たちは普段、地上では自分の中から自分とその環境を見ていますので、昔のこともつい先程の口論のことも自分本位で反省することなくやり過ごしてしまうことが多いものです。しかし霊界で顧みる自分の人生とは、自分の肉体から見るのとはまたちょっと違った視点で、映画でも観るようにして理性的に観ることができるのだと思います。
 私はこのシーンについて、生前・生存中に自分の知り合いだった親しい人と共に見るものと思っていましたが、志摩川さんの話しを聞くと彼の場合は常にひとりで見ていたようです。この儀式の経験の仕方は、人によって多少異なるようです。
  死後の世界の研究をしている日本在住で京都大学院のカール・ベッカー教授によると、この儀式では早送りの映画のように見せられる場合や、大事なところだけをスライドのように静止画で見せられる場合など、人によって異なっているとのことです。また日本で「三途の川」と言われるものはアラビアでは燃える砂漠で、ポリネシアでは荒れる海で、スコットランドでは登れないような絶壁となるのだそうです。何事も決めつけてはいけないようです。

「その1」の後半の死後の世界に於いては、前半における主義主張とは異なりますが、死後の霊界においても、人は肉体をもっていた記憶から自由になれないことが分かります(ここで人というのは肉体でもないが純粋意識の魂でもない、マインドから放れられない意識を主体とする)。

 

 また地上と違って死後の世界は肉体がない分、心がすぐに現実となっていることも分かります。類は類を呼び友は友を呼ぶとの法則も顕著なために見習うべきものも少なく、常に同じ価値観の人たちと共にいるために自分と他人との摩擦にも歯止めが少なく、あっという間に進化なく地上時間で数十年、数百年が経ってしまう世界です。

 

 その反面、肉体をもった重い波動の地上では自由が制限され人と人の自由意思が反目している分、学びに適した場であるということができるのです。

 もう新しい地球までに残された時間があまりありませんが、私たちはより心を洗い、魂を磨き、新しい地球の建設に向けてますます学びを深めていくことか必要となっているのです。