アイデンティティ】

 
生き甲斐と価値観を感じられ、自分らしさの独自性と存在感を確認しながら自分と同化・同一化する‘外的’対象物

 

「アイデンティティ(identity)」という言葉は精神世界でも時々使われます。

 三次元的な意味からは、巷間では何か良いイメージを持つものとして使われる場合が多いです。名誉や地位を得て、人からの評価が高まることに価値を置き喜びとすることに何の疑問すら持てない現代社会に於いては、確かにアイデンティティをしっかりと確立することは良きこととなるのは至極当然なのです。しかし新しい地球を目指す者にとってアイデンティティの所有は避けたい意識構造で、超越しなければならないものなのです。ここではこのアイデンティティの正体を探ってみます。


 アイデンティティを辞書で紐解(ひもと)けば「同一性」「同一人」「同一物」「身元」「自分らしさ」「独自性」「主体性」など抽象的な言葉が並んでいて、どうも意味がよく解からないのです。

 それで「身分証」として馴染(なじみ)のある派生語のアイデイティフィケイションという語彙(ごい)を調べてみると、その語源はラテン語のidem(同じ)、identitas(同一性)とfacere(作る・為す)からきていました。 

 私たちがあるゲートを通過するとき、門番から「あなたが本当にあなたであるという証拠を見せてください」と問われることがあります。そのとき私たちは免許書などのアイデイティフィケイション(身分証)を見せます。そのとき門番は私ではなく身分証を信じたことになります。おかしくないですか? 

 

 アイデンティティは日本語の訳としては上記の一言解説では理解不可能です。言葉という要素で語り切れないもっと深い意味が内在しているからです。そこで全部入り解説として書き出してみれば… 

「生き甲斐と価値観を感じられ、自分らしさの独自性と存在感を確認しながら自分と同化する外的対象」… とでもしましょうか…… 余計解からなくなりましたか?


 正しく意味を理解していただきたいとこれから解説をしますが、理解が深まるとこのアイデンティティとは私たちの自我・欲・執着という幻想を作り出している意識構造の大きなポイントだと解ってきます。それ故に自分と御法度(憎しみ・怒り、恨み・妬み、心配心など)というエゴ意識との関係を観察し、自分に纏(まと)わりついている幻想を知り成長を図ることに於いてもこの意識構造に常に注意して理解することは極めて重要なこととなるのです。

 

 

エゴが自分を認識するために必要なもの

 

 アイデンティティとは本当の自分ではなく「外的存在価値と自己との同一化」です。

 自己本質の見えない「マインド」である自我意識(小我)が自分を形ある「もの」に代替(だいたい)して、その「もの」を自分と同一化することによって自己の存在を確認していると考えると分かり易いかも知れません。これは本当の自分を見失っていることから起きてくる反応で、自己価値の認識消失による「自己価値外的依存症」とも言えるものです。
 思考に没頭している地球人は常に自己の価値を五感が感じ確認できるもの、思考する精神が認識できるものを対象としています。それはマインドの自己認知領域とも言えるものです。

 

 

消失した真我の代替

 

 普段地球人はこのように無意識にマインドに心を奪われ本当の自分を見失っている自我の維持状態で、本当の自分に気づいていません。
 しかし自分を見失っている自我意識だって常に自分の拠り所を求めて止まないのです。
 マインドに翻弄(ほんろう)される幻想のこの自我は光輝く永遠の自分の価値を自分の内に見いだすことができません。そんな自我は自分の価値を外に代替するしか方法がないのです。そこでアイデンティティの出番となるのです。アイデンティティは自己の存在意義の認識にとって必要不可欠のものです。そしてこれが執着となってエゴを生む大きな要因となっているのです。

 アイデンティティとは消失している真我を代替する価値基盤です。
 真理は自我が感じる五感では認識できない精妙な波動に乗ってやってきます。だから自我に覆われた唯物論者の人類は自分の本質を見失ったままでいるのです。このように人は本当の自分を見失い、自分の価値を自分自身の内面に求めることができません。それで他に依存してしまうのです。

 しかし小我(エゴの棲むマインド)は自分が外に依存しているものは永遠ではないことを経験上気づいていますから、常に自己の価値を投影できるものを失うことに恐怖をもってしまうのです。
 これが自我の性(さが)であり、恐怖心の下で自我がアイデンティティと同一化して執着する要因です。

 人が自分の本質が霊的実在であることを理解できないで物質社会の範疇(はんちゅう)で自分探しをしていると、自分を五感で認識できるものへと代替する必要が生じるのです。

 

 アメリカの著名なスピリチャル指導者であるエルクハルト・トールは、彼の著書「ニューアース」の中で、

「エゴが生まれる最も基本的な精神構造の一つがアイデンティティである」

と、その罠について詳しく述べています。

 

 

アイデンティティの分割

 

 あらゆる「もの」の所有に対して人は、私のものに執着を持っていて自分とものを同一化し、他人との共有を拒みます。アイデンティティが分割されることは自分の価値や生甲斐が分割されることだからです。アイデンティティとはかくもエゴの本性なのです。

 これは名誉や過去の栄光も同じです。これらは過ぎ去りし日々のことであり、「今」においては価値のないものです。余り言い過ぎるとそっぽを向かれてしまいそうですが、「おもいで」に酔いしれることの本質も同じなのです。

 自分と土地や富との一体化(同一化)、学歴や名誉や地位との一体化、恋人や家族との一体化、幼き頃の写真を見て懐かしむおもいでとの一体化、容姿との一体化・・・ 厳密に言えばこれらはすべて「今」とも「本当の自分」とも袂(たもと)を分け分離・分裂したアイデンティティ(同一化)です。
 アイデンティティは自分のものは自分のもの、人のものも自分のものとの所有欲にも繋がり、今を生きることのできない精神構造でもあるのです。

 

 

自分を愛するように他人を愛せ

 

 イエスは『 自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい 』(マルコ12章31)と言いました。この他人とは恋人や家族以外、他民族も他国の人も、自分と同様に愛しなさいということです。

 アメリカ映画のテレビドラマなどを観ているとよく「家族が自分にとって一番大切なもの」というような場面や、娘や息子のためならば自分の命をも厭わないと言う親のセリフは良く聞くものです。大統領選挙の応援を観ていても、家族を大切にする大統領候補たちは、幸せな理想の家庭さえ築けていれば大統領の仕事も上手くいくと錯覚しているかのようで、家族に対する深い愛への評価はいつも高いものです。でもまったく赤の他人の命の身代わりとなると、そんな勇気の行動はなかなか取れないものです。


 かつてインド生まれのキャビンアテンダント(ニーラ・パノットさん)がハイジャックに遭った飛行機の中で自分の体を楯にして乗客の子供の命を救い、犯人から自分の命を奪われた事件がありました。本当にアイデンティティから解き放されているとこのような行動が取れるものだと思いました。
 自分の家族にはそんな自己犠牲の行動は取れるが、他人だと取れないというのは、終極においてはこのアイデンティティから完全に解放されていないと考えられるのです(可なりハードルが高いですが…)。

 アイデンティティというのは物も名誉も、そして人間関係も対象となるのです。
 だから「家族が一番」という考え方はとても尊いものなのですが、家族への愛が精神的バランスを崩し強いアイデンティティと化したら、家族を失ったときには途方に暮れて失意もそれだけ膨大になるというのは事実なのです。

 韓国で家族に事故などで死者が出ると、家族は気がふれたように泣きだしている光景をテレビなどではよく観ますが、これは彼らの性格もありますが、それに加えて韓国儒教による強い家族依存というアイデンティティの影響を受けていると思います。

 韓国に於いて家族とは絶対的な条件付けの位置付けがされ、それがアイデンティティをより強めているのです。

 

 冒頭触れましたが、アイデンティティという意識構造を深く理解すると自己意識の観察が深まります。私たちはアイデンティティを自分と勘違いし、愛と勘違いし、偽りを求めてしまう場合がとても多いのです。愛の相克(そうこく)・・ 増え続けているストーカー行為などはその典型です。心配、怒り、嫉みなどの御法度の心や感情の高ぶりが起きたときに、その心を観察するとアイデンティティに行きつくことがとても多いのです。

 この文書をお読みになってアイデンティティを理解できたなら、是非とも感情が揺れる度に意識を向けてみることをお勧めします。

 

 

アイデンティティの消失を恐れるエゴ

 

 思考に嵌まっている自分は本当の自分ではないのに、思考が自分だと思って勘違いしているのが多くの地球人の現実です。自分の深遠と繋がれない思考は自分が自分であるがために「自分は生きる価値があるのだ」「私の生甲斐はこれだ!」と、自分の価値を思考が認知できる外の代替品に見いだして縋(すが)るのです。
 家族や恋人に執着し、名誉に執着し、容姿に執着し、あらゆる「もの」に執着して自分の外で真の不動の自分とは別に、変貌する外付けであるアイデンティティへのコントロールを繰り返しながら生甲斐維持に躍起(やっき)になるのです。

 よくテレビドラマや映画の中で子供が誘拐されたり、病で生死を彷徨(さま)よったりしていると、母親の場合など「この子は私のすべてです」「この子がいなくなったら私にはもう生きている意味がない」と泣き崩れる場面を見かけますが、家族であれ恋人であれ、これはアイデンティティに執着している証明なのです。ちょっとそれではハードルが高いと思われるかも知れませんが、永遠性のない代替との一体化は、やはりアイデンティティなのです。

 競馬やパチンコに没頭する人も、スリルに喜びを感じたりするのとは別に、「勝利する自分」に自己の価値を映し出して酔いしれているのです。アイデンティティが強いほど、依存症は深まります。


 先日テレビを観ていて、子離れ(アイデンティティ離れ)できない母親という番組内容の放映をしていましたが、子離れできないのは夫が仕事に追われて相手をしてくれない場合が多いと定義していました。番組ではそれで意識を子供に向けてしまうとしていました。

 一方男性の場合は、家庭や隣人の愛を外から感じられない状態で仕事を失うと寂しいものです。このような人は定年になると仕事にあった役職や役割というアイデンティティが全消失するからです。自分が生きている意味と役割を自分の中から見出す人は幸いです。定年を迎えても自分を見失うことはないからです。


 私の知り合いで離婚した直後に分不相応の高層マンションを申し込んだ人かいましたが、傍(はた)から見ていて離婚の寂しさを補うために家を購買したことは誰の目にも明白でした。「子供のいる我が家」というステータスあるアイデンティティを無くしたので新居に夢を掛け、消失した価値の代替としたかったのです。彼は周りからの反対に耳を傾け、後に我に還ってマンション購入をキャンセルしましたが、自分の外にしか生甲斐を見いだせない人の心はいつも新しい何かを求めていて不安定なのです。このような傾向の強い人は自分の伴侶や恋人、子供や友人にすら高学歴などの高いステータスを求めて止まないものです。

 しかし本当の自分は自分の外にある永遠でないものに価値基準を当てていません。

 

 目標なども本来は決めごと、条件付けであり、人間が単独で設定すべきものではありません。

 

 

 

大我(全体意識)が目標を奏で

 

真我(魂)が使命(役割)をもち

 

人間は小我(エゴ)を捨てあるが侭、

 

全体の流れに身を委ね、今を生きる

 

そんな「今を生きる世界」にはアイデンティティはなく、

生きる意味は吾が内に一貫して在るのです。

 

この用語解説は「宇宙の理」2013年9月号の拙稿をリライトしました。