おもいで(その4) 死後の世界で 志摩川友重

今回は、前回(その3)の再生の時の記憶の更に前の霊界での記憶だそうです。

 気がつくと私は大きな篭を両手で抱えながら立っていた。目の前には椿の木ほどの大きさの立派な木が見え、私が抱えている篭の中には卵の形に似た青紫色の実がたくさん入っていた。地面には芝生のような草が生えていて、左側には木造で白ペンキ塗の大きな建物があり、その反対側には低い柵が遠くの方へ続いていた。どこからか小父さんが私のところに近付いてきて、まるで親が子供に言うように「その実は食べちゃだめだぞ」と言ったままどこかへ行ってしまった。

私は他にすることも特に思いつかなかったので、その格好のまましばらくその木の前に立っていた。すると女性が「いらっしゃい、案内してあげる」と話かけてきた。
「でもこの篭が・…」
「それはそこに置いておけばいいから」
  その女性の言葉は明かるく優しさがこもっていた。私は抱えていた篭を木の前の草の上にそっと置いて、彼女に従った。彼女の姿からは穏やかでしっかりした人柄が滲み出ていた。彼女は私をある小さな建物の中の質素な作業場のようなところへ案内した。そこには非常に簡単なつくりの木製の長い机と長い腰掛けがあり、その机の上には小さな布地と裁縫箱がおいてあった。彼女は小間物を作ってみせながら「こうやってみんなが使うものを自分達で考えながら作っているの」と説明してくれた。

「何をしたらいいのかよくわからない」
「いいのよ、自分が思いついたときにできることをすればいいんだから」「それより休みましょう」
 さきほどの木の前に戻ると彼女は私にその木の実を食べるように勧めた。私はさっき会ったちょっとかわった様子の小父さんの言葉が気になっていたので、その実には手を出さずに黙って腰を下ろした。二~三人の人達が来て彼女と熱心に会話を始めたので、私は一人で辺りをぶらぶらと散歩をすることにした。遠くを見回してみると見渡すかぎりの美しい草原であり、特に変化のある風景ではなかったが、側にはきれいな小川が流れていた。私はそれに心が魅かれたので白ペンキ塗の低い柵をこえてその小川に近付いて行った。

春の小川 絵:正垣有紀
春の小川 絵:正垣有紀

 その小川の流れがあまりにも美しかったので、私はその流れに見蕩れながら下流の方へゆっくりと歩いていった。しばらく歩くと草原が一段低くなっているところが見えてきた。それ以上そこを下りて進んではいけないような、恐ろしいような気が何となくしたので、その手前で腰を下ろして休んだ。

 小川の水は美しく澄み、その流れは光をきらきらと反射して奇麗で、水草が水の流れに素直に身をまかせている様子をみていると心が芯から洗われるようであった。このような素晴らしい体験を心ゆくまでさせていただいたことを幸せに思い、これに相応する感謝の言葉も思い浮かべることができなかった。

「大丈夫?」
 気がつくと彼女達が心配して私を捜しに来てくれていた。時がたつのもすっかり忘れていた。
「ここから先は行かない方がいいわよ」
「ええ」
「さあ、戻りましょう」
「はい」
 彼女達に心配をかけたことを申し訳なく思ったが、それがわかっているのか彼等はごく普段のときと同じように装っている様子だったので、私はそれに応えるべくなるべく明るく振舞うよう努力をした。
 私がいつもあの木の実を食べようとしないので、彼女が質問をしてきた。
「なぜこの実を食べないの?」「嫌いなの?」
「そんなことないけど・・・」
 私は彼女にその実を食べようとしない経緯を詳しく説明した。
「それはおかしいわ」「ここにいる人達は誰でもこの木の実を食べていいのよ」「本当は全ての人々が食べるために用意してあるものなんだから、食べてはいけないなんて言うのは間違っているわ」
「どうぞ」「食べて」
 彼女はその実が入った篭をもちながらあまりにも熱心に私にその木の実をすすめるので、私は何も考えずにその篭から木の実を一つとった。乾いて黒っぽくなった葉が実についていたので大きなものは手で払い落としたが、彼女の熱心さに負けて細かいものは払い落とさずそのまますぐにその実を口に入れた。何とも譬えようのない素晴らしい味が口の中に広がった。
「美味しい!」
「いつも木の前で休みながら食べているの」「皆で集まって楽しいお話しをしながら食べることもあるのよ」「いつでも自由に食べていいのよ」

 私は何をやったらいいか仕事が特に思いつかなかったので、とりあえず彼女の仕事を手伝うことにして彼女の指示に従った。彼女はいつも部屋の中で小間物を作っていたので、私は仕事の手伝いのときも休みのときもいつも彼女といっしょにいることになった。
 数人で木の前で休憩していたあるとき、一人の男性が彼女に私といつもいっしょにいるがどういう関係なんだいと尋ねているのが聞こえた。私は今まで彼女に迷惑をかけっぱなしでいたのかと一人で悩み込み、彼女には何も言わずそのグループから離れることに決めた。しばらく一人で歩きまわってみることにしたが、ここの地理もよくわからないので無暗やたらには進まず注意深く行動するように気をつけた。
 あちこちと小さい集落を訪ね歩いたが、周囲は広い草原で特に目標となるものがもともと無いのでどこをどれだけ歩いたかは全くわからなかった。あの懐かしい小川が目に入ったとき自分がもといたところに戻ってきたのに気がつき、やはり自分に合ったところはここ以外には無いのかもしれないと思った。私はいろいろと親切にしてもらった彼女のいるところを訪れることにした。
 彼女は私の姿を見るとびっくりした様子をして「今までどこに行っていたの?」「みんな心配していたのよ」
「じつは・・」「あの人が私とどんな関係なのか聞いていたでしょう」「それでひょっとして迷惑をかけているんじゃないかと思って・・」
「それで私に黙って?」
「はい」
「はーん、なるほど」「それで私のこと嫌い?」
「いいえ、そんなことはないですけど」
  彼女は大きな声で笑ったが、それを見て私はほっとした。それを機会に私は彼等とも親しくなり、どんな相談でももちかけることができるようになった。

マニ宝珠 by Shimagawa
マニ宝珠 by Shimagawa

 ある時、ここで最初に出会ったあの小父さんが訪ねて来たので、あの時どうしてあの木の実を食べてはいけないと言ったのかを聞きだそうとしたが何も答えなかった。そのうち私の仲間が集まって来てやはり同じ質問をしだしたが、その小父さんは言ったことは認めたもののそれ以上は言葉がつまって何も言えなくなってしまった様子である。
「何もあなたを責めているわけではないんです」
「ただその理由を知りたいだけなんです」
「もしこちらに原因があればそれを直すよう努力しますのでぜひ教えて下さい」
 その小父さんは何も言わなかったのでその原因はわからずじまいであった。
 その後しばらくたってからあの小父さんがある人に連れられてやって来た。この世界から他の世界へ移ることになったので挨拶をしに来たとのことであった。
 彼は仲間達から例の質問責めにあってしまった。それでも彼はそれについて語ろうとはしなかったので、こちらの方もそれ以上聞き出す気にはなれなかった。

 その後も長い間皆といっしょに楽しく暮らしていたが、私もいよいよあの世界に生まれ出ることになった。

「みんなのこと忘れないでね」
「またあおうね」
「必ずここに戻ってきてね」
「うん、必ず戻ってくるから」
 皆と別れを惜しんでいると、迎えの者がやって来た。
「もう、あの時がきたんですか?」(東の果ての日出ずる国に生まれる時=管理人)
「いいや、まだだ」「その前に一回別のことを経験しなければならない」
「はい」
「ここはどうだった」
「ええ、とても素晴らしいところで、ここで生活できたことをほんとうに満足しています」「みなさんもいい人達ばかりでたいへんに楽しく過ごさせていただきました」「またこのつぎもここに戻ってこれるでしょうか?」
「次は時間が無いので無理だろう」
「ただ一つだけ気になっていることがあるのですが」「あの小父さんがなぜ私にあの木の実を食べないように言ったのかご存じですか?」
「ああ、わかってはいるが・・」「知りたいのか?」
「もし私がその理由を知っていたほうがいいのならば教えて下さい」
 彼はそのまま黙っていた。
「彼とはこれから二回目に生まれ出るときに身近な者となるであろう」「そのときその者の性格が理解できるよう努力をしなさい」
「はい」
「こんなことを言うと人の一生は全部決まっているように聞こえるかもしれないが、そんなことは決してない」「たとえ人の行動を制御できたとしても人の心の中の奥にあるものを直接変化させることは我々にさえできないし、それが仮にできたとしても敢えてそれをするということはこの宇宙そのものの存在自体を無意味にしてしまうことに繋がるであろう」「本人自身が気がつき努力しなければそれを変化させることはできない」
「もちろんそれはわかっております」
「私がなぜこのようなことをわざわざ言ったのかわかるときが必ずくるであろう」
「はい」
 私はここで今までお世話になってきた人達全員に挨拶をして別れた。

 

 管理人の所感

 

この霊界の描写からは、私たちが生きている暮らしとあまり変わりないことが判ります。
ただ、類は類を呼び友は友を呼ぶの法則から、心穏やかな人が死んだ場合に行く霊界ではあまり目立って反目することはないようですが、多くの憎しみ恨み辛み、怒り、不平不満、心配心などのエネルギーを持ちこんでしまうと、そういった世界で暮さねばならないので大変なことだと思います。
だから心を洗った人は死んでも幸せでしょうが、心に汚れがたくさん付いていて、それをそのまま持って行ってしまう人は長きにわたって大変だと思います。基本的に同じような心の状態の人が住んでいますから。だから、できるだけこの世で心を洗っていきましょう。

魂の進化と心の浄化(洗心)については機会があれば詳しく書いてみたいと思いますが、基本的には心は磨くものではなくて洗うものです。磨くのは魂です。
心は研磨するのではなくて氣づきと光に照らされて洗われていくものです。暗い霊界は光が乏しく、氣づきも起き難いので心を洗うこともなかなか侭ならないということです。
一方で魂は地上での艱難(かんなん)を乗り越えながら、つまり修行しながら研磨して進化・成長するものです。
いずれにしましても魂の進化・成長のためにも、心を浄化するためにも、地上へ何度も転生して修行し研磨することか必要ということになります。

心と魂について簡単にわかりやすく説明しますと、基本的に 魂は男にも女にも生まれ変わりますので、純粋な魂そのものには男女という意識はありません。もっと言えば、魂とは個性のない純粋意識の神の子です。

 

地上で肉体を持った人間はそのとき入った肉体によって新たな個性を付加されるということになります。男に生まれたときは女に恋をするし、女に生まれたときは男に恋をするのです(本能)。魂以外の意識、前生の肉体にあった本能を含んで前生の個性を全部引き継いで受けていたらこの単純な恋愛ゲームのルールも成り立たないのです(実際は意識の残留によってこのルールが成り立たない同性愛などのケースもある)。こんな当たり前のことが魂の意識を取り違えると説明できなくなります。ですから死後と転生で受け継がれるものと受け継がれないものがあると考えられます。また志摩川さんが言うには、自分の転生輪廻の経験からは前生の意識を引き継いでいるものがとても多いとのことです。

恋愛は愛というよりも本能です。ですから死後の霊界に性別をもって存在しているのは、純粋意識の魂(魂の核)ではないのです。仮に魂とするのなら、魂に加えて転生で作ってきた様々の意識、そして本能の一部までも継続して持ち合せていると考えるべきと思います。

またかつて志摩川さんは日本人だけではなくて他国での転生も何度も繰り返しますが、入る肉体によって民族意識という集合意識の影響を受けることになります。これは遺伝子が大いに関係していると思われます。兄弟の性格が似ることが多いのも、同じ遺伝子の椅子に座る確率がそれだけ高いからです。血液型によって統計上性格に方向性がみえるもの遺伝子の影響が高いと考えれば納得できるでしょう。

 

魂の進化はこのように幾多の意識を背負いながら心の浄化と共に進むことになります。

 では、この霊界での志摩川さんの意識は魂なのでしょうか、心なのでしょうか、それともそれ以外の意識でしょうか、本能でしょうか? あるいはその全部を兼ね備えている存在なのでしょうか?
この霊界で志摩川さんは男性として存在しています(肉体的に一番若々しいころになるのだそうです)。ですからこの霊界での志摩川さんは純粋意識の魂というよりも生まれ変わりで積み重ねてきた意識の影響を、前生や霊界の過去から引き継いでいる存在ということができると思います。

宮沢賢治は人間は青い意識の複合体と言いましたが、霊界の存在もある意味同じ複合体と言うことができそうです。

一般的にスピリチャルの世界でも、魂を個性のない永遠の純粋意識(ピュアな神の子)として捉える場合と前生から引きずっている永遠でない個性を含めて魂と表現する場合がありますが、表現者の意識としては後者の方が圧倒的に多いと思います。この「おもいで」においても魂を純粋意識としてのみ解釈している訳ではないので、読者はあまり言葉の概念に捉われないようにする必要があります。

日本は世界の中心で世界の雛型です

地球の歴史も日本を中心に動いている面があります。しかしだからといって日本人が特別なのではなくて、その遺伝子に意味があるという面もあるのです。ただ光の子である場合に限って、この時期に日本に生まれるということだけでも霊位・霊格的に観て大変なことだと思いますが、今は性格の多くが遺伝子で決まると言われている時代でもあるのです。

さてそして、話題が変わりますが、ここで避けて通れないことは、なぜあの木の実を食べてはいけないのか? という疑問についてです。
この疑問について多くの方が読みながら解答を追ったことと思います。この解答は私にも分かりません(実は志摩川さんも答えを知らないとのこと)。私自身も小説を読むようにいつどこでその答えが出てくるのだろうかと文書の中に解答を期待して読んでいました。そして私は今、この文書を読んで何を考えたかということがこの文書の存在意義であったかのように思っています。

 

私たちにとって疑問を持つことでその答えを求めるということは大切なことです。

疑問を持つということ自体が真理を探究することの第一歩で、素晴らしきことです。

この意識が先ず初めにないと真理はやってきません。そもそも探究心を生む疑問なき人に答えを与えても理解不能であるのと、その安易な答えが相手の依存心を高めてしまうのです。だから罪となる場合もあるのです(罪とは意識のマイナス進化を作り出す運動)。

「尋ねる」という儀式があって「解答」は初めて正当性を持ち「回答」となるからです。しかしそれをどこに求めるかということがポイントなのです。

そしてできれば答えはストレートに返さないことが賢明なのです。

新約聖書を読んだことのある人は思い出し、容易く氣づくことがあります。

イエスは人から質問を受けたときどうしたでしょうか? 答えを直ぐに言ったでしょうか? 私の記憶からはおそらくイエスは一度も答えそのものを解答していないはずです。イエスの答えは常に譬え話でした。

答えを回答として、自分の中からやってくるように仕向けた、のです。

 

「おもいで」を読んでいる場合でも文書の中の文字に直接の解答を求めると、ショーペンハウアーが言った「読書とは本を書いた人の脳で考えること」になってしまうのです。常に行間を読むという意識付けが、読書だけでなく日常生活の意識の持ち方においても大切となります。

宇宙の法則の罪の一つに尋ねられもしないのに勝手に答えを与えてしまう、ということがあります。もちろん一概には言えないのですが、自分が知識があるということを見せびらかしたりする動機の場合はほぼ当てはまってしまうでしょう。また情けもこれに当たります。

 

最後に 『ET地球大作戦』(コスモ・テン発行・絶版)から地球人に向けた「銀河カウンシル作戦本部」からのメッセージとイエスの言葉の真意を紹介しておきます。
『我々は侵略しない。しかしながら、この作戦要員の一人が地球人として生きることによって地球人の地位を獲得し、次元を超えた干渉または援助を要請してきたときには、その要請に応えても宇宙の法則を破ることにはならない』


イエスの言葉の真意
『求めよさらば与えられん』
上の「銀河カウンシル作戦本部」からのメッセージもそのヒントになっています。