おもいで(その5) 江戸の末期に… 志摩川友重

今回の「おもいで」は、前回(その4)の直前にあたるものです。江戸時代の末期から明治にかけてのことと思います。(志摩川)

 

つまり その5 → その4 → その3 と続いていることとなるわけです。
私(管理人)の昔の友人で著名なコンピュータグラフィック誌の編集長をしていた人がいました。

幼いころから種々の聖霊や宇宙の意識体などと繋がって交信ができた人で、少年のような清らかな心の持ち主でした。宇宙の法則にも造詣が深かった彼は時代が前後して雑誌に発表されるこの物語24回をすべてコピーし、時代順に並べ替えて読み直しました。彼は読んでみて「時代順に並び変えると何かしっくりとこない」と言いました。

 

 私は小さい頃から親のおかげて生活に少しも苦しむことなく贅沢で恵まれた暮らしをしてきたが、唯一つの不満なことは私の意見が聞き入れられたことが全くなかったということである。そして外出の際には必ず誰かが私に付いて来て、例えば買物とか、何をするときにも一々指図されるので自分の意思で行動したことが一度もなかった。そのため世の中のことに疎く誰とも人付合いというものをしたことがなかった。
 結婚話もやはり親の決めた筋書きのとおりに勝手に進められ、有無を言わせず結婚させられてしまった。ただし親が選んだこともあって、妻は奇麗でとても気立てがよく優しい女性であった。だが私は今まで人との心のふれあいの経験をしたことがなかったので、妻の優しさを理解することができず、また自分以外の人に優しい言葉をかけるということは全く心に思い浮かばなかった。私の心の中には『私の希望や意見がいつも無視されている』という不満がいつも渦巻いていて、私の身近にいる妻にいつも辛く当たっていた。親の言い成りになって結婚したことがなおさら感情を高ぶらせて、暴力はふるわないながらも言葉でその感情を思いっきり妻にぶつけた。私があまりにもしつこく悪口雑言を妻に浴びせ掛けるので、ついに彼女は私に近付くのも嫌がるようになり、この家に嫁にきたのを酷く後悔しているように見えた。
 彼女は私に愛想を尽かし、私の目の前に一人の男性をつれてきて、「この人と一緒に生きていきたい」と言いだした。以前から気になっていた男性らしい。私は「そんなに一緒になりたければそうすればいい」『どうせ親が勝手に決めた縁談なんだから』という思いがわきあがってきて、「どこへでも行きたいところへ行きなさい」
と彼女に家から早く出て行くように迫った。そのとき彼女はほっとしたのか顔を輝かせ希望に満ちた表情となり、喜び勇んで家を出ていった。

The Earth by Shimagawa
The Earth by Shimagawa

 ところが数日後彼女が部屋の中で俯いて座っていたので、「どうしたんだ」と尋ねると、黙ったまま私を睨みつけた。家族の話によると『うちの嫁が他の男といるところを見つけたので連れて帰ってきた』ということだった。私は彼女があまりにも気の毒に思えたので、直ぐに父親に「自分が勝手に彼女を追い出したんだ」「こうなった原因は自分にあるんだ」と力説し、「彼女自身が望むようにさせてあげたいので協力して欲しい」と真剣に父親の説得を試みたが、父親は「余所様に対して見っともないことをさせるんじゃない」「家の恥だ」「家に傷をつける気か!」と言って全く取り合おうとはしなかった。この家で働いている者達も家族も全員父に絶対服従を決め込んでいるので、また出しても見つかれば彼女が何回でも連れ戻されてくるであろうことは容易に想像できた。

 

 何とか彼女がこの家を出て幸せになれる方法はないものかといろいろと思案を巡らした。彼女がだいぶ気落ちをしている様子だったので「いつかきっとあの男と暮らすことができるように頑張るから待っていろ」と励ますつもりで言ってみると呆気にとられたような表情でこちらの方を見た。それからは彼女に辛くあたるようなことはしなくなった。
 ある日、親戚全体で集まる機会があったので、そのとき思い切って「妻とは間もなく離縁するつもりであります」と全員に告げた。いろいろと質問を受けたが彼女への中傷となることや彼女に不利になると思われることは全く言わなかった。私の決意が固く皆の前で言ってしまったので父親も離縁に反対することができなくなってしまった。
 正式の離縁か決まった日に彼女の母親がしきりに私に謝っていたので私は「娘さんは一つも悪いことはしていません」「この責任はすべて私にあります」「お許しください」と逆に頭をさげて謝った。彼女は何も言わず俯いたまま私とは目をあわせないようにして迎えに来た母親と一緒に実家に帰って行った。

 その後間もなくして私は他の女性と再婚させられてしまった。私はもう二度と同じようなことを起こさないよう自分の行動に充分注意していた。しかし、今度の新しい妻の私に対する態度は言葉で表現できないほどきついものであった。まるで前もって父親から私の扱いづらさを聞かされているかのように、私に絶対に隙を見せないように用心している様子が手にとるようによくわかった。彼女の私に対する態度がかなり酷いものだったので今度は私の方が妻に近寄るのを避けるようになり、しだいに彼女とは口もきかないようになった。
 ある日彼女が出ていった前の妻の悪口を言ったので、私は思わず言葉が出てしまった。
「知らないくせに、いい加減なことを言うんじゃない!」「あいつは凄く善い奴だ」「優しくてよく気がついた」「悪く言われるようなことは何もしなかった」
「あんたあの人のこと好きなんでしょ!」
「ああそうだよ、好きだとも!」
 私は悪いことを言ってしまったと思ったが、彼女は私のこの言葉を聞いても表情も変えず、ただ納得したというような様子を見せてすぐにどこかへ行ってしまった。その後もう彼女がどこに行ったか家の者に聞いても誰も答えようとはしなかった。『人間として言ってはいけないことを言ってしまったなあ』などと一人で悩みながら、久し振りに静かで寂しい時を過ごしていた。

 数日後、以前私が原因で出ていくことになった以前の妻が部屋に戻っていた。彼女は落着いて穏やかな表情をしていた。私は彼女の姿をみたときあの女性は今まで私の父親の差し金で私の本心をずうっと探っていたんではないかと思った。戻ってきた彼女に対しては、こちら側の都合ばかりが考えられていて彼女の人格は全く無視されていることに、あまりの申し訳なさで言葉が出なかった。しかしここで私がいろいろと騒ぎだすとかえって彼女をより大きな混乱に再び落とし入れることになるだろうと考え、しばらく様子をみてから彼女の意思を後で再度確認してみることにした。彼女が戻ってきたことについては、内心嬉しく思うところがあったが、以前彼女が「一緒に暮らしたい人がいる」と言ったのを覚えていたので、その意思を尊重し彼女の心を傷付けないよう慎重に行動した。そのため同じ家屋の中で主な部屋を別にして生活していた。彼女は一切何の不満も愚痴もこぼさず一生懸命私の日常の生活の世話をしてくれた。だが彼女が今後どのようにして生きて行きたいかを確認するための話を切出すことは私にはなかなかできずそのまま長い時間が経過していった。

梵字 by Shimagawa
梵字 by Shimagawa

 私の父が亡くなって葬儀が済んだとき、父の店で働いていた使用人の中の年長の者が今後どのような方針で店を運営していったらよいのか私のところに聞きにきた。私はそれに何も答えられずすっかり弱ってしまった。父は商人の子に学問は必要ないと言って私に充分な教育を受けさせなかったうえに殆ど私を家から出さないようにしていたので人付合いの経験もなく、店にいることも許されなかったので商売の勉強や体験することさえできなかったのである。本来ならば息子である私が家業を継いでいかなければならないのであるが、商売に関する知識も体験も全く無いので私にはどうすることもできないのであった。
 

「申し訳ないのですが、私には商売の知識を得ることも実際に商売に参加してそれを体得することもできませんでした」「あなたは今まで父の下で働いてこられて貴重な体験をされているものと思います」「そこへ何の知識も無い私がでしゃばっていって商売を滅茶苦茶にしてしまうようなことはしたくありません」「もしあなたがよろしければお店のこと全てをあなたにお任せしたいのですが」「私が店の主人に居座っていると何かといろいろな会合に出席しなければならなくなり、そういう場で店に迷惑をかけてしまうことになっても困ります」「ですから私があなたに店の商号を貸してあなたがこの店を経営していくというのはいかがなものでしょう」「私には妻と二人で暮らしていけるだけの家があって質素な生活ができるだけのお金がいただければそれで充分です」「私はこの店で働いてきた人達を路頭に迷わせるようなことはしたくありません」「どうかお願い致します」私は彼に頭を下げてお願いした。彼は泣きながら私の申し出を引受けてくれた。

 私が四十歳を過ぎた頃、もう過去のことを言い出してみても彼女に悪いと思っていたのだが、気になることがあったので思い切って妻に話しかけてみた。
「もし子供がいるのならば、よかったらうちの子として引きとってここで一緒に暮らしてもいいんだが」
「あのとき実家に帰ったまま結婚せずに一人でいました」
「あの男と暮らしていたのではなかったのか」
「はい、一人であなたのお許しが出るのを待っていました」
「あんなに強く一緒に暮らしたいと言っていたので、最初に出て行ったとき二人で生活を始めたのかと思っていた」
 彼女は目を輝かせて次のように言った。
「あの人は私の幼馴染じみです」「私がかなり気落ちしていたので私のことを心配して来てくれただけです」「あのとき本当に出ていこうと思っていましたが、疚(やま)しいことはしてません」「それとも気になります?」
「そういえば、気になるなあ」「こりゃあ困ったなあ」
 私がこう言うと二人とも笑いだして一気に打ち解けてしまった。
「最初連れ戻されたときはどうなることかと心配でしたが、二回目のときはあなたがお呼びだというので喜んで戻ってまいりました」
「ああ自分も嬉しかったけど、悪いことをしているんじゃないかと思って、表情には出さないように一生懸命頑張っていたんだ」
 私は彼女の心を傷付けてはいけないと思って言葉に気を配りながら話をしたが、彼女が戻って来たとき私がそれを嬉しく思ったことは事実でありこれは自分自身認めてきたことでもあった。

石庭 by Shimagawa
石庭 by Shimagawa

 いつまでも若く元気なつもりでいいたが、頭に白髪が目立つようになると自分の身体の調子もめっきり悪くなってきた。医者に診てもらったところ、身体が弱ってきているので絶対無理しないようにいろいろと細かい注意がなされた。自分の寿命がこの先短いのではないかと思うと、一人で残されることになるであろう妻のことが非常に心配になってきた。そして一生懸命世話をしてきてくれた妻に何もお返しになるようなことをしていないことに気がつき、いったい妻にどんなお礼ができるのかじっくり考えた。
 私が亡くなった後も妻を寂しがらせないために必要なものは、物でも力でも名誉でもなく、彼女がもっている優しさと誰にも負けない愛情を表現できる人間の仲間、それも最も身近な私達の子供であろうという考えに達した。私は自分が死ぬまでの間にどうしても二人の間の子供をつくろうと心に決めた。もしそれが原因で私の寿命が縮まることになってもかまわないと思った。だが妻に私の身体が悪いことを言ってしまうと彼女が私の健康を心配することになり、そうなると子供をつくることを断念せざるを得なくなるので、彼女には私の身体のことは一切何も知らせなかった。

 

 それから元気な男の子が生まれた。私も嬉しかったが妻の喜びようといったら今までに見たことがなかった。縁側に腰掛けながら庭を眺めてのんびりと静かに楽しんでいた私達の暮しが急に希望に満ちた活気のある生活へと変化した。私は自分の寿命がもう残り少ないことがよくわかっていたので、店のこと全て一切をお任せしておいた人を呼んでもらって次のようにお願いした。
「私達の息子が大きくなったときに、私のように商売のことも世間のことも知らない人間になってしまった場合を考えるとたいへん心配です」「丁度いい年ごろになったら、店で実際に働かせて商売のことを勉強させてやっていただけないでしょうか」「いつも虫のいいお願いばっかりして悪いと思っていますが、これが私の最後のお願いですのでどうか聴いてやってくれないでしょうか」
「よごさんす、私が責任をもってそのとおりさせていただきます」「いつでも何でも遠慮なくおっしゃっておくんなさい」
彼は私の申出を喜んで受けてくれた。

  私の病気はかなり悪化していて身体がなかなか思うとおりにはならなかったが、今まで心配していたことがすべて解決されたので心底から安心することができた。
 ある天気のいい日『そういえば子供をつくると決心したあのときからすべてが充実していたし、すべてが私の望んだとおりうまくいった』『この年とこの身体でよく子供ができたもんだ』『これで妻も一人ぼっちにならなくてすんだ』『有難い』・・私は、妻は勿論父と家族とお世話になった人達に感謝しそして私達二人に子供を授けていただいたことについても感謝しながら静かに息を引取った。


 私が宙に浮かんだ状態のまま下を見ると、妻が私の身体の横で泣伏していた。私にはもう手出しができず、できることといえば妻がこの悲しみから早く立直れるように祈ることだけであった。
 私の側にお迎えらしい女性が来た。
「気持の整理はつきましたか?」
 その女性に話かけられたが、私は妻のことが心配だったのでもう少し様子をみることにした。私の意志が強固だったのでその女性はどこかへ戻っていった。

金剛盤 by Shimagawa
金剛盤 by Shimagawa

 葬儀も済んで何日かたった頃、親戚の女性が妻のところに来た。何をするのかと思って見ているとこの家の悪口を言いだした。最初から妻を苛めるつもりで来たようであるが、妻は何も言わず黙ってそれに耐えていた。私は妻が気の毒になり、思いっきりその親戚の女性を睨みつけた。するとその女性は元気がなくなったようにおとなしくなって帰って行った。
 ある日、妻の幼馴染みのあの男性が訪ねて来た。私はそれを見て自分のここでの役割も終わったと思いこの世界を旅立つことにした。そのときあのお迎えらしい女性がやって来た。
「あなたの奥さんはあの男の人と一緒になるつもりはないのよ」
「ええ、妻を心配してくれる人が現れただけでもよかったと思っています」「いつかまた私は妻と会うことができるんでしょうかねえ?」
「またこの世界で会えますよ」「もう心の準備はできました?」
「はい、大丈夫です」


 そして私は狭い部屋のようなところでさっきの女性と二人で立っていた。そこで私が今まで生まれてから死ぬまでの間のすべての思考と行動を、まるで立体映像のビデオテープを早送りで再生している中で私自身が演じているように、全てを正確にはっきりともう一度体験させられた。それは長いようでまた一瞬のようでもあった。私は過去の自分の行動や言動を今ここで起こったばかりのことのように思い起こしていた。
「妻に辛くあたったことがあったことを今でも後悔しています」「何で最初から優しくできなかったんだろうか」「あのときは自分の気持しか考えていなかった」
「でもあなたはあの環境の中で誰に教わることもなく、独力でその優しさを自分のものにしましたね」「それはあなたの魂にしっかりと刻み込まれているので、もうそれが消えてしまうようなことは絶対にないでしょう」「さあ、それではご案内しましょう」

 気がつくと私は大きな篭を両手で抱えながら、椿の木ほどの大きさの立派な木の前に立っていた。私が抱えている篭の中には卵の形に似た暗い青紫色の実がたくさん入っていた。地面には芝生のような草が生えていて、左側には木造で白ペンキ塗りの大きな建物があり、その反対側には低い柵が遠くの方へ続いていた。

村祭り 正垣有紀
村祭り 正垣有紀

 管理人 の所感

 

束縛しているのは誰か?

 

私たちがこの世に生を受けて自我をもって歩みだすと、自由意思を表現しようとしていきます。自分を生きようとしたときにいろいろな環境で、上位にいる人たちから制限や条件付けのコントロールを受け、誰もが少なからず束縛されていると感じるようになります。今回の「おもいで」にあるように初めは親からの束縛がもっとも多く大きいのが普通で、大人になると会社などの組織からの束縛、上司からの束縛、伴侶からの束縛などと環境も変わっていきます。これは地球という自由と自由が反目しあう星に生まれたことの宿命とも言えますが、本当は心が先にあって地球人という宿命が付いてきています。

 

結論的なことを先に言うと、ユートピアの星の条件というか、愛を育んだ結果として現れるスムーズな社会秩序の現象として、戦争などの争い事がないこと、そのために軍隊・警察もないこと、法律がないこと、私有という観念がないこと、お金がないことなどがあります。またカルマがないことも挙げられますが、不自由がないということもユートピアと呼ばれる星では必須のことです。不自由がないということはみんなが自立し全体の意思を汲んで生活できるので、好き勝手に生きていても全体の創造の流れに沿っているため、それぞれの自由と自由がぶつからない、反目しないということです。もっとも現代の好き勝手とは意味が違って思いやりをもったエゴのない好き勝手です。

これについては「おもいで(その21)」で詳しく触れる予定ですが、不自由がないということは、自由という概念も存在しないということです。

さて、親からの束縛を受けると普通は制限を作り出しているのは親で、自分は制限を受けているのだと思います。自分が束縛されていて自分の思い通りの人生を歩ませてくれない・・ 自分が思い通りに生きられないのは自分の所為ではなくて親という自分以外の存在の所為で・・ と、大体の人は思うのです。しかし実際には「自分が親の意思に反発することを言うと親から反発されてしまう」との思いから意思を行動に移せないことから束縛は生まれています。


つまり自分の人生が不自由だらけと思ったら、それは自分の内面の摩擦と葛藤の反映なのでまだまだ学ぶべきことがたくさんあるということです。

多くの地球人は既に自分の中に制限を観念的につくっています。本当は自分の中に既にある制限の思い込みが「私を自由にさせない人がいる」という不自由を反射的に無意識に、自分の中に映し鏡として作り出しているのです。論理的に分かっている私にしても初めはそう思って被害者意識を持ってしまうのです。私にマインドがあって、感情があって、虚栄心やアイデンティティがあって、恐怖心もあって、これらの全部が活動しているから当然なのです。

 

しかし偽りの自分であるマインドが生みだしている被害者意識の法則に氣づき、本当の自分がしたいと思っていることを「しよう」と行動する意志が芽生えて自分の中の制限枠を超えてくると、結果的に親や周りの反発も受けなくなるのです。

単純に「この子には何を言ってもダメだ」「言うことを聞かない」と親が束縛を諦めるというのではなくて、束縛される必要(学び)自体がなくなって行くのです。必要でない運動はこの宇宙には起きていないのです。つまりすべては自分の中で起きていることなので、内部処理によって是正するしかないのです。

そして実際に、他人が自分を束縛するということは起きていないのです。自分が不自由だと感じるのは自分が自分に制限を課しているに過ぎないのです。


宇宙はその自分の中の制限枠を取り払うために他人を使って制限に制限をぶつけ、摩擦を起こして不自由を作り出して私たちに不自由を経験させているのです。つまり自由を知るために不自由を作り出して経験しています。しかし不自由がない新しい地球には自由という概念そのものもなくなります。二極が一極になるとはそういうことです。ですから理屈上、愛しかない世界には愛という概念も必要ないのです。
不自由に限らず、秩序の乱れが起きているとき、原因を他人のせいにしてしまうか素直に自分の心を観るかが氣づきが生まれるか否かの分かれ目なのであり、マインドからの脱却の第一歩です。

自然の流れに乗る

 

自分の死期が何となくわかる、高齢なのに妻の幸せを願って子供をつくろうと決める、このような何となく沸々と湧いてくる想いに乗るという生き方、自然の流れに逆らわず合わせる生き方というものが、私たちの人生をよりスムーズにしてくれます。欲張らない生き方、背伸びしない生き方です。特に新しい地球を目前としている今、そんな「勇気」と「思いやり」が大切になります。


ここでの志摩川さんの生き方は初めは自分の感情に任せて毎日を送っていたようです。それが段々と思いやりを学んで、全体をとても理性的に観る目というものを育んで行きました。これは本来はたった一つの生まれ変わりの人生だけでは学びきることはできるものではないと思います。しかし志摩川さんはいまこの時代に光の子に必要な意識の在り方を、一足先に教えてくれています。この時代は波動が高まっているので、通常これまでの時代とは違い、心がけ次第でこれまでとは違って急速に心を洗い、魂を進化させることができるのです。

 

伊勢神宮と出雲大社の式年遷宮が今年行われることで、地球は今年(2013年)から来年にかけて大きく変わって行くことが予測されます。これまでだって充分大きな変化が起きていますが、もっともっと大きな変化が起きていくことでしょう。それは異常気象などの天変地異を含めた現象だけでなく、私たちの意識も波動の高まりで心を洗うほどに私たち本来の波動が表面にでてき易くなります。新たに知り合う人や自分の環境が変わって行くことを経験する機会も増えることでしょう(「愛・和のバイブレーション」はそのお手伝いをします)。

 

これまで好きだったこと、興味を持っていたこと、仲間だった人、在籍していた組織、そういうものが自分の今の心にそぐわないと感じるかもしれません。昨日まで仲が良かったのにもう会うことに喜びを感じない人たちがいたり、仕事が自分のエネルギーにそぐわなくなったりするので急に仕事が辛くなったりというふうに感じるかもしれれません。既にそんな経験をしている人、今まさにそんな経験の中にいる人も多くいることでしょう。それはそれで無理をしないでそのままの流れを無の心で感じていきたいものです。そんなエネルギーの流れ、自然の流れを全体の中からゆっくりと焦らず感じていきましょう。

 

先の束縛と同じで、意識が変わることで環境も変わるのです。そんな変化に対して疑問を持ったり流れに抵抗したりせずに、自然の流れに任せていきましょう。今後は人の周波数の変化でそれができる人とできない人の二つに急速に分かれていくことでしょう。
自然の流れに合わせることができる人はシンプルな生き方のできる人です。こだわりや執着を持ったり、地位や名誉に捉われている人はなかなか苦労が絶えず、苦しみも深くなってしまいます。

愛と恋

 

さて、今回は何ともほのぼのとした夫婦愛が描かれていましたので、恋愛感情などについても考えてみます。私も高校生のころ、未熟さ故にお互いに好きあっていながら別れた経験がありますが、そんな過去を振り返ると自然体というものが一番だと思います。
しかしマインドに心動かされる毎日の私たちは自然体であることはとても難しいのです。
特に恋愛というものは自然体になることが難しいのです。恋愛において自然体になれないのは恋の感情があるからです。

「恋愛」とは恋の意識が愛の意識を凌駕した意識状態です。


日本語では恋愛に関した言葉としては恋と愛という語彙があり、英語では Love と Loveaffair, Affection などがありますが、アメリカの映画やテレビドラマを観ていると男女間の愛はほぼLoveで言い表されますので、英語での恋愛すべてが Love が使用されていると言って良いと思います。
しかし、男女間の愛(Love)は愛というよりも恋の方が断然近いのです。愛のエネルギーがまったくないとは言いませんが、恋愛中に限れば断然に恋心が愛の心を凌駕しているのです。

(その4)の所感に続くこととなりますが、これは男女間の恋愛は愛というよりも本能だからです。

 

当たり前のことですが、愛は差別をしません。すべてに対して公平で別け隔てのないものです。アガペーの愛です。
異性に限定して愛するというのは愛ではなくて恋なのです。エロスの愛です。しかしこれはそもそも真の愛ではありません。種族繁栄と保存のための本能なのです。
では同性愛はという疑問が出るかもしれませんが、これは種族繁栄ではありませんがやはり偏向したエロスの愛なのです。同性愛も異性から同性に対象が変わっただけで、やはり偏向した愛なのです。これも真の愛ではありません。

そもそも限定された対象に好感感情を抱くというのは愛の基本定義にはないのです。だから男女間であれ同性間であれ、恋愛は胸がときめき、苦しくもなり、相克を生み、ありの侭の自分をさらけ出せないのです。魂の想いではなくてマインドの想いをさらけ出しているのです。マインドという永遠でないものの想い(恋)は、やはり永遠ではないのです。魂という永遠であるものの想い(愛)は、やはり永遠なのです。

 

この志摩川さんの夫婦間の愛情は親に決められたもののため、初めは恋愛感情の無きものだったようですが、暮らして行くうちに恋愛感情も徐々に芽生え始めてきたようです。一度別居をしてからそのことの氣づきが互いに強くなり、後でまた一緒に暮らし始めてからは今度は恋よりも愛が深く芽生えていく様子を感じ取ることができます。
熟年夫婦の愛情というものは恋愛期と比べて遥かに深く、信頼があるほどに安定していてお互いに大きな許しを伴っているものです。

許し

愛と許しはとても近いものです。志摩川さん夫婦が後半深い絆をもてるようになったのも許しの心が育まれたからだと思います。
前述した「束縛」とも関連しますが、許しとは自分に起きていることを人の所為にしないで自分のこととして受け入れられれば起きやすいものです。

 

宇宙はすべて神の手の中にあります。戦争も殺人も神が同意して作り出しているものです。宇宙の手の中、神の手の中で起きていることで、神はその行為と存在に意義を見いだして許しているということになるのです。

私たち地球人は普段マインドから身近に起きる出来事を見ているのでそのことに気づきません。ほとんどの人が死ぬまでそれに氣づきません。しかしその神の意向に繋がっていると全体意識の意図とも繋がっているということで、自分と他を別けない、差別しない愛の心そのものに向かっているということなのです。言うことは簡単ですが、それができないので私たちはカルマを作り出してしまい、地球という星に生かされているのです。

では、私たちは愛と許しを育むためにいったい何をすればいいのか? 自分の心を、マインドを観るのです。毎日毎日、全体意識からじっと見詰めるのです。ただそれだけです。

 

そしてもう一つ先のことを言えば、もしも全体の声が魂を通して聞こえてきたら、その流れに乗るのです。それを「勇気」というのです。