おもいで(その6-2) 1300年前の中国で2 志摩川友重

今回は前回(その6-1)の続きになります。この章は全24話の前半の山場です。それはひとつに、霊界からの教えがとても素晴らしいからです。
私たちが何かの岐路に立ったとき、私たちがその答えを自分で探そうと自分の世界を彷徨うことは多くあります。いつでも答えを求めて自分の中に入っていきます。それが普通なのかも知れません。グループで答えを探す時にもグループの意識空間の中でなくて、それぞれが自分の中に答えを見つけようと個々が自分の中の思考空間を彷徨います。そして深い思考に嵌まるほどに答えを定型化させようとするようになっていきます。しかし自分の中に嵌まるほどに統一された本当の自分である全体意識の回答から離れていきます。

今回の話しは前回(その6-1)地上に生きた後、肉体を離れた死後霊界でのことです。

今回は本文と後半の私の所感とを *No. で関連付けしました。

 その後も辛抱強く兄達を待っていると或る人が私の側に近づいてきて「彼等はもうこちらの世界に戻ってきて、行くべきところに行ったよ」と教えてくれた。

 

*0. そして兄達が地獄のようなところで苦しんでいる様子を見せてくれた。それを見るとあまりの酷さに気の毒になり、今までの悔しさも消えてしまった。ついでにあのお爺さんと伯父さんがどうしているのかも聞いてみた。
「彼等もやはりそれぞれ行くべきところへ行って苦しんでいる」「見たいかね」
「いえ、お話をお聞きするだけで充分ですけれども、何故あの人達はあんなことをしたんでしょうか」
 その人は暫く黙っていた。

 

*1. 「そのうちにいろいろと体験したことを広く皆に知らしめるときが来るであろうが、これから言うことだけは誰にでも知らせていいというものではなく、知らせる相手をよく厳選せねばならない」

「私が知らせるのですか?」
「そうだ」
「どんな方法で知らせるのですか?」
「それはそのときになればわかる」
「どうして相手を選ぶ必要があるのですか?」
「それは相手の魂の度合いによっては正しく理解されないこともあるからだ」「場合によっては魂を地獄といわれるところに落としてしまうこともあり得る」
 これを知らせる際の厳しい注意事項とその知らせるべき内容を聞かされた。

 

 *2. この話が終ると別のことを話しだした。
「ところであのお爺さんと伯父さんだが、今からおよそ千三百年程後のあの終わりの時に、東の海の彼方に浮かぶ小さな島で、ほぼ同時期近い場所に仲間として生まれ出ることになっている」
「私の仲間としてですか?」
「そうだ」
「あんまり会いたくない人達ですが」
「そのときは二人とも女性として生まれることになっている」
「お爺さんの方は先に生まれて皆を導く道を作っていくので、何かと世話になるはずだ」
「伯父さんの方は三人のうちでいちばん後で生まれる」
「一時的ではあるがどちらか心がひかれることがあるかも知れない」
「二人とも今回の業を背負っているのでその行動が変わって見えるところもあるかも知れないが、道を外れないように見守っていてやれ」
「この三人で何をするのですか? 」

 

*3. 「光輝くものの手伝いをするのだ」
「あの地獄のようなところへ行っている彼等がですか?」
「そうだ」
「光輝くものの手伝いをしているという理由だけでその者の魂の高低を判断することはできない」
「その者の魂の特性にそって手伝いができるということである」
「その二人の魂がそのとき光輝いているかどうかはこれからの彼等自身にかかっている」
「例えば『光輝くものの手伝いをする者』と言われるだけで思い上がり魂が曇ってしまうことがある」
「だから周りの者も盲信によってその者達をもち上げるようなことをしてはならない」
「それが原囚となってこの者達を堕落させた場合、堕落させてしまった者達もその責任を免がれることはできないと思え」
「三人が仲間として活躍するとき、三人ともそれぞれ病気を治せる能力がある程度ついているはずだが、その頃には他にもそのような能力を持つ者達がたくさん増えていることであろう」

 

*4-1.「だが、決して病に苦しんでいる者達の表面に出ている症状だけを治そうなどとは考えてはならない」
「魂の進化浄化のために病気にかかっている者達や、
*4-2 ある使命のために自らすすんで病気の身体を持っている者達もいる」
「もし無暗に病気などを治すと、その使命が達成できず本人の努力が水の泡となることがある」
「また魂の進化浄化のための病気の身体をそのまま治療してしまうと、来生でもう一度同じ病気で苦しまねばならなくなる」
「本来の目的である本人の浄化の目的のため、場合によっては、病気を治した者がこの病気の一部か全部かを肩代わりとして受継ぐこともある」

 

*5.「本人に治療を頼まれていない場合には、病気の治療を試みてはならない」
 「本人の改善意欲の発現も必要だからである」

 

*6.「病気発生までのからくりを正しく理解していない者達は、絶対に病気の治療に手をだしてはならない」
「それから次に述べることを忘れないようにしておけ」
「心ある者に知らしめる必要がある」
「悪行の多い人々を心の中で馬鹿にして善行に夢中になる者と、善行の多い人々を心の中で馬鹿にして悪行に夢中になる者とは同じ類いのものといえる」
「悪行の多い人々を敵対視し心の中でその悪行を完璧に無視しながら善行に走る者と、善行の多い人々を敵対視し心の中でその善行を完全に無視しながら悪行に走る者とはやはり同じ類いのものといえ、先程の場合よりもっと始末が悪い」
「これらの本当の意味がわかるであろうか」

 

*7. 「悪行を成した者達にも感謝したことがあるだろうか」
「この感謝とは悪行を成した者に対する直接的な感謝ではない」
「殺されてみなければ、殺されることの恐怖と生きることの素晴らしさやその感動は誰にも理解することができない」
「傷つけられてみなければ、大切なものをとられてみなければ、何らかの被害を受けてみなければ、その辛さそして平和と幸福の有難味は誰にも理解することができないしそれに対する感謝の心も生まれてこないであろう」
「悪行を成してきた者達は人々の魂の進化の役割を結果としては担ってきたとも考えられるが、これをもって悪行を成すための正当な理由とすることはできない」
「自分の悪行に気がついていない者達は、直ちに反省し自分の力でこれに気がつかねばならない」
「自分はもちろん他人の魂をも光輝かすことができるよう努力していかなければならない」
「悪行はもちろん善行からも逃避して、他者または考えを異にする人々とのあらゆる関係を全て断った者達、及び何も彼も一切しようとしない者達は自分を始めとして他の魂の進歩発達をも拒否し否定した者達である」
「その者の魂は地獄の最下層に行き、そこで反省が全く起こらなければ、やがて消滅する」
「善行といわれることばかりを成している者達は直ちに目を覚まし、自分達がしてきたことの真の姿に早く気がつかねばならない」
「自分に良い結果が還ってくることを期待して善行を成している者達よ、いい加減そこから卒業せよ」
「善行に酔っている者達よ、自分達の愚かさに早く気がつかねばならない」

 

*8.「善行を成すことにより、そのときの人類全体の平均意識水準を基準としてそれと正反対の位置にある同量の悪行が蔓延ることになるという法則をよく覚えておかねばならない」
「この悪行の増大を防ぎ世界中を真の平和で満たしていくためには、人類全体の平均意識水準を向上させることに努力を注いでいかなければならない」
「つまり世界全体の人類の意識水準の上から下まで全体をそっくりまるごと向上させていけということである」
「自分一人の意識水準だけを上げようとしてはならない」
「善行悪行それぞれの成立原因とその成立経過についての深い洞察の上にたって、極端に走らず万事その釣合いをよく考え、一番ふさわしいことを成せ」
「善悪の考えに囚われず、人々の魂の進化発展に役に立つことを成せ」
「もし神意を観ずることができるようになれば、善も悪ももともと無いことに気がつくであろう」
「ただしこれを頭で理解しようとすることは危険を伴うことがあるので、自然にこれがわかるようになるまでは、これについて議論をしてはならないし考えようとしてもならない」
「もしこの真の意味を正しく理解せぬまま無暗に行動を起こし自他の魂の進化に悪影響を与えた場合、その責任はその者自身に還ってくる」
「何事も中庸が肝腎要だが、これは何もするなということではなく、中正の道を進めということである」
「極端に陥らずに中道を進み、より神意に添ったことを成せ。

*9.「道を進もうとする者達にこれを『困難だ』とか『無謀だ』『不可能だ』などのような陰性の暗示を与えてはならない」

 「陰性の暗示は魂の芽を摘みその進化を妨害してしまう可能性がある」
「このような暗示を与える者は、本人に対してであろうと他人に対してであろうとその結果次第では重罪となるであろう」
「生半可な知識で神意を得たとは思うな」
「思い上がるな」「常に神意に対して謙虚であれ」
「神意を知ったと思ったとき、神意を観ずるための入口に今立ったばかりだと思え」
「神意は決して知識ではなく、知識から得られるものでもなく、行動から得られるものでもない」
「神意が特定された場所でしか得られないということは一切ない」
「神意が或る決められた修行法でしか得られないということも一切ない」
「先入観を捨て我欲を無くし素直な心になればいつでもどこでも誰でもが神意を観ずることができる」

 

*10. 「神意というものは人から人へ伝えることのできるような性格のものではない」
「神意を言葉や文章、行動などで広めようとしてはならない」
「もし人に神意を伝えたと信じる者があれば、その者は他人を自分が今いるべき地獄に引きずり込んだ者であり、その責任は非常に重い」
「もし人に神意を伝えたいと真剣に思うのであれば、それを考えずそれを心静かに待ち、先ず自分を高めていくように努力をせよ」
「もしその者にその器があれば、いつか神意の伝播を手伝っている自分に気がつくことがあるであろう」
「神意を伝えたいなどと思っている者よりも、神意など気にせず神意という言葉にも囚われず気持ちを明るく保ち一歩一歩地道に着実に歩んでいる者のほうがより神意を観じやすく、より神意にそって生きやすいとゆうことを絶対に忘れないようにしろ」

「神意にそって生きている人はどんな厳しい過酷な状況に置かれても自分を見失わず、神意にそって他人のために生きることができる」
「場合によっては必要ならば他人のために自分を犠牲にすることもある」
「それは正義とか名誉とかの形式のために自分を犠牲にするということとは違うものである」
「正しいことだと教育をされたからそのとおりに他人のためだと思って自分を犠牲にするということとも違うものである」
「正しいことだと自己暗示をかけてきたためその暗示のままに他人のためだと思って自分を犠牲にするということとも違うものである」

「あることに感動をしたのでその感動のままに他人のために自分を犠牲にするということとも違うものである」
「ある人に同情をしたのでその同情のままに他人のために自分を犠牲にするということとも違うものである」

 

*11.「もし『他人のために自分を犠牲にすることができるか』と質問をされたときに、この質問に『はい』と答えることのできる者は、その者には勉強と反省が必要である」
「神意に添って生きている人々にはその質問にどう答えてよいのかわからない」

「神意に添って生きている人々にとっては神意の前では他人と自分の間の区別は考えられないのである」
 話が一通り終わったとき、私はこんなに長い話を覚えていられるのかどうか心配であった。
「そのあと、あちらの世界はどうなるんでしょうか?」
「他人のことまで思うことのできる人間はそのときまでに現れているでしょうか?」
「それは今の段階ではわからん」
「それは人間達自らが決める問題だ」

 

 私は遥か彼方にあるという小さな島国を心の中に思い浮べ、『気の遠くなるくらい長い先の話だなあ』と考えていた。

管理人の所感

 

 私たちの心に愛が溢れれば私たちの悩みは一掃し、争いごとも一切消滅します。

 “愛” の反映は個々の一体と統一とが成就された 個と全体の“調和” の姿であり、不調和は個の分裂の反映だからです。私たちの不幸の根本的な原因をつくっているのは、私たちの心が個に固執する余り分裂を繰り返しながらそれを維持し、全体と統一されずに愛が満たされないでいること故なのです。

愛はどこにある

 

 真の調和については私たちの表面意識はほとんど理解していないものの、私たちの深層意識はよく理解しているのです。それ故に私たちの深層意識はメッセージによって、自分の中に愛と調和を育もうと毎日毎日愛について考えて欲しいと表面意識に直観を送ってきます。それによって他人から見て一見幸せに見える人・・アイデンティティに包まれて満足している人でさえ、深層意識との繋がりが強い人の多くは自分の幸せが虚構であるかも知れないとの疑念を持ちます。アイデンティティの満足(勘違い)ではない真の平安を求めて日々自分の中に愛を求めて探しに行きます。

 私たちがスピリチャルな世界に興味を持ったのも、きっと日常の表層的な幸福感では満足のできない、真の愛を満たそうという動機が大きな部分を占めているに違いありません。

 

 しかし自分の中を探しても探しても自分の中に愛は見つけられません。自分の中に愛が見つからないので、それで結局、愛を育もうにもそれを育むことができません。私たちはいつも自分の中に籠(こ)もっていて、私の愛、私の愛・・と、自分の愛を探しています。

 しかし私たちは自分の愛というものを持つことはありません。「私の愛」は存在していないからです。

 

 愛は唯一・絶対であると同時に共通のものとして個々に形を変えて普遍化されているものの、その根源は決して一人ひとり固有のものとして個々に存在していないからです。愛は私たちが共通のものとして理解したときに、初めてその姿を私たちの前に現わしてくれるのです。私たちは先ず、愛というものの本当の姿について学ぶ必要があります。

 

 私たちに愛が見つからないのは、私たちが愛の習性と本質を知らず、愛のないところを探しているからなのですが、それでもまた懲りずに私たちは自分の中にもっともっと深く入って行き、愛を探します。自分だけの愛を・・・ そして結局見つかりません。

 何故かというと愛はそもそも私たちの中には存在していないからです。愛は私たちの中に定住している訳ではないのです。愛はある波動調整の環境設定が私たちの中にできたとき初めて、愛を受け入れる心(愛の心)の中に流れてきます。

 

 譬え話として私たちの体の中を流れる血液を愛に比喩してみます。

 
 私たちの臓器、そして足の親指から手の小指、髪の毛一本に至るまでを私たち人間とし、私たちの体全体を宇宙とすると、愛は全身をくまなく流れる血液に比喩することができます。
 その間、心臓からスタートした血液(愛)は動脈を通って毛細血管まで私たちの体を隈なく駆け巡り静脈を経て心臓に戻ります。

 私たちの足の親指にあった愛は次の瞬間には足の小指に流れているかもしれません。そして順次体を回って手の指や髪の毛の根本へと、そしてすべての臓器にまで到達します。つまり私たちの愛は唯一絶対であり、かつ普遍性を以ってしてそれぞれの部位に亘るのです。

 それを人と宇宙の愛に置き換えれば、私の血液である愛と隣人の血液である愛はまったく同じものの共有であり、私だけの愛など存在していないことを顕しています。私たちが真の愛の働きを知るためには、私の中に留まっていてはならないのです。神の愛、宇宙の愛は血液と同じように私たちの体に流されて全体で共有しているものであり、決して私たち固有の所有物ではないのです。

 愛に包まれている私たちが本当の愛の意味を知るためには、私たち固有の世界で愛を求めるのではなくて、愛の存在している大元の世界に意識を向ける必要があります。それなのに、残念ながら現代人の殆どの人がそれとは真逆の世界(マインドの深み)に向けて邁進しているのです。だから私たちは、本来は愛と呼べないアイデンティティという自分だけの愛が作り出す愛憎飛び交う執着の世界に嵌まり、そこから脱することなく何千・何億という年月を費やしてきたのです。

 今からでも、私たちはいかなる知識にも優るものとして心を洗い清め、魂を磨き、理屈を超えて愛の流れ入る心をいっぱいに広げていきましょう。愛が自由に出入りできる愛の心を育成していことによって初めて、私たちは愛の世界を自由に旅することが可能となるのです。

 何千・何億という年月の苦労が成就する「新しい地球」というユートピア成就への宇宙の祭典が、いまこの地球を中心になされようとし、私たちはその祭典に参加する心の準備を意識下で、刻々と進めているところなのです。意識下から意識上にその思いが湧きあがってくるとき、私たちはより強く全体意識と統合しています。そしてそのとき、神との合一による共同創造によるユートピア成就に向けた道が、私たちの眼前に大きく広がっていくことでしょう。

 

「おもいで(その6-2)」の霊界同様に、私たちも霊界に於いて一人ひとりの成長度に合わせた素晴らしいメッセージを授かってきました。天上世界から地上に降りた私たちにはいまも、幾多の導きが常にインスピレーションとして降ろされいます。そのことを天の導きから今一度感じてください。その波動をキャッチするためにも、一人ひとりが己の心を観て心を洗っていくことが益々必須となっていきます。

 

現象界

 

*0.そして兄達が地獄のようなところで苦しんでいる様子を見せてくれた。それを見るとあまりの酷さに気の毒になり、今までの悔しさも消えてしまった。ついでにあのお爺さんと伯父さんがどうしているのかも聞いてみた。

 

 悪行の限りを尽くしたお爺さんや兄は、地獄と呼ばれるような世界に堕ちて行きました。

 地球は三次元の現象世界です。現象界というのは思っていることを映し鏡として反映されて現実が作り出されている世界です。三次元の肉体世界のことを現象界であると思っていて、それに対比して霊界のことを現象界でないと思っている人もいますが、それは違います。「おもいで」を読んでみても明らかなように、むしろ(肉体に反映されないということはあっても)霊界の方が如実に心のあり方が背景の現実として反映されている現象界です。
 本来霊界では何十,何百という波動別の居場所に相当する格付けという霊位・霊格の存在がありますが、地球上ではその多くが一緒の空間に住んでいます。嘗てイエスと普通の人間たちが同じ空気を吸っていたことを考えても、そんなことは霊界ではあり得ません。


 霊界における居場所の定位置は、「おもいで」を読む限り初めは多少定まらないようですが、その内に同じ波動の人が住むということで定まってくるようです。極悪を極めても地球では監獄行きで済みますが、霊界では地獄で苦しみっぱなしで大変です。しかしそれを別にすれば霊界は地上と比べて自由性があるので住みやすいと言えるかもしれません。
一方で私たちが生きている地球はさまざまな愛の心の指数を持った人たちが住んでいます。それでもある程度は同様のレベルの人が人種やグループを作って住んでいます。
 霊的なレベルも嗜好も違っている人がごちゃまぜなので、それだけ自由性がありません。そしてそんな抵抗がある故に、地上はそれだけ学びにもなるということです。

 *1.「そのうちにいろいろと体験したことを広く皆に知らしめるときが来るであろうが、これから言うことだけは誰にでも知らせていいというものではなく、知らせる相手をよく厳選せねばならない」

「私が知らせるのですか?」
「そうだ」・・

 

 何ともこの霊界での教えを更に分かりやすく解説しようとしている私にとっても初めからプレッシャーのかかるお言葉ですが、「人(にん)をみて法(のり)を説く」との格言がありますが、まったくその通りです。

 私も氣を付けないといけませんが、五感による真理の伝達は基本的に不可能ですので、情報は慎重に伝えなければなりません。人から人に真理は決して伝えることはできません。いかなる方法を駆使してもです。


 私なども知ったことを直ぐに人に教えてしまったり質問に対して簡単に答えたりして反省しることがありますが、基本的には心に湧いた疑問は自分で考えて解かねばなりません。真理の本当の理解は一人ひとりで完結するしか方法がないからです。 疑問を持ったということは自分で真理を見つける道の入り口に立ったということです。それを解くことで人は真理と出会う道を切り開いていくのです。

  だから、お節介は要注意です。特に本人から「教えてください」という依頼(これは儀式でもある)がないにも関わらず勝手に答えを出してしまう人は要注意で、肝に銘じなければなりません。

 何であれ人生で出会う問題は宿題ですので自分で解くことが必須なのです。お節介の激しい人の場合は他人のそのチャンスを潰してしまうということで、これは罪になるので場合によってはカルマを背負います。
 ニューエイジと呼ばれているものの多くは、無条件に応えるというこの罪を多く犯している場合が多いです(もちろん本物もあります)。「私の使命は何ですか?」とニューエイジのチャネラーなどに安易に聞く人も聞く人ですが、それに直ぐに答えてしまうチャネラーなどは問題外です。
 病気治しの場合にも同じで、改善したいという決意なく安易に病の表面だけを除いて欲しいと縋る人を軽率に治すことは罪になることがあります。病はカルマから来ていることも多く、勝手に病を治してしまうとカルマの償還ができなくなってしまい、そのカルマを肩代わりしなければならない場合があります。

 

運命は決まっているのか

 

*2. この話が終ると別のことを話しだした。
「ところであのお爺さんと伯父さんだが、今からおよそ千三百年程後のあの終わりの時に、東の海の彼方に浮かぶ小さな島で、ほぼ同時期に近い場所に仲間として生まれ出ることになっている」

 

 転生において、1300年先の予定が決まっているということです。そして予言通りに志摩川さんは今現在、東の海の彼方に浮かぶ小さな島に生れて生活しています。


 私が小学生のときに、公園で出会って時々遊んでいた近くの少女が交通事故で亡くなりました。 特に親しい少女ではありませんでしたが、そのとき私は思いました。「もし僕が〇〇ちゃんと遊ぶ予定をちょっとでもズラしたり止めたりしていれば、〇〇ちゃんの時間もずれて死ななかったかもしれないのに」・・と。

 小学生だった私はこのことを時々思い出しては自分とこの少女との死の連携を悔いて悩んでいた記憶があります。しかもそれを大人になるまで何度も思い出していた記憶があります。この考えは肉体の世界こそが私たちの世界すべてであるとすると正しいかもしれません。しかし目に見えない世界で私たちを配した脚本は刻々と進行しているのです。
時々遊んでいた近所の子の事故死ですら子ども心にそう思うのですから、たとえば愛する我が子を交通事故で亡くした両親などはもっとそんな自責の念を考えるのではないでしょうか。
「あのとき叱っていなければ」「あのとき一言声をかけなければ」「あのときトイレに行かせていたら」・・ これら何気なく自分が作った一瞬の時間のズレがなければ交通事故は回避できたのです。交通事故は一秒一刻の時間差で遭遇するか否かが決まってしまいます。特に何の非もない被害者だったら、地上から見れば正に不運な事故に思えることでしょう。しかし私たちの人生の物語が「進化の物語」として事前に脚本が書かれていたのなら、それらの事故は回避できないことなのです。両親や友達は何の責任も感じることはないのです。

 以前も書きましたが、スピリチャル的には人生は決まっている訳ではなくて、自分の努力次第でどうにでもなると教える場合が一般的です。それはそうでしょう。人生は決まっていると教えたら何もしない人が多く出てきてしまうので、決まっていても本当のことは教えられません。
 しかし前述した「人をみて法を説く」の教えから、このサイトにお寄りいただいている方はそれなりの用意ができている前提として言わせていただきますと、(一概に決めつけられませんが)肝心要の部分は動かしようがない場合が多いようなのです。「おもいで」を読んでいて、いつもそんな思いがより強くなってきます。
 私の推測ですが、天上界において物語の筋書きがあってある程度の大枠は決まっているものと思われます。その大筋の要のところが予定通りに行かず道を逸れそうになったときには、天上の存在たちは修正に向かう手立てに全力を掛けるのではないでしょうか。特に人の寿命などは大きな変更は難しいと思います。周りの人の予定もそれに準じて大きな変更が強いられるからです。これらはもちろん絶対と言えるわけではなく、基本的なことと思います。

 

 こう書くと、たとえば病気で自分や愛する人の死期が見えたらもう諦めた方が良いのではないのか、と考える人が出てくるかもしれませんが、そのように考えることは止めたほうがよいでしょう(相手を選んで法を説けとか、真理は五感で伝わらないとか、求められもしないのに答えを出してはいけない、などの教えはこういう軽率な誤解を回避しなければならないが故にある)

 自分や家族の病を何とか治そうと動く人たちがいて、その努力が実行されるという前提で宇宙の脚本は書かれている・・つまりその意思と行動が予定に組み込まれているのです。この場合は助けようとしないことのほうが罪となります(ただし病人本人の意思を無視して強引に治そうとコントロールするのはエゴ)

 

 言葉に書いていると入り組んできて難しくなってしまいますが、いずれにしても本当の自分である大我と一体になった宇宙の意思からの援助をしようとしているのか、或いは自分の満足感というエゴで人を助けようとしているのか・・ それを注意深く観察できれば、病んでいる人とのトラブルもなく進み(治療の結果はどうであれ)、運命は正しく成就されていくことでしょう。

 

*3.「光輝く者の手伝いをしているという理由だけでその者の魂の高低を判断することはできない」「その者の魂の特性にそって手伝いができるということである」・・

 

 これは魂の霊格(純粋な魂それ自体の高低)と霊位について述べる必要がありますが、今日はもっと簡単に言うと。

 霊格の高い人であっても霊格の低い人の援助を受けたりもしているのです。実際、強盗に遭った、通り魔に殺傷された場合も、会社を首になったり、いじめに遭ったり、そんな悪夢の後にだってそれを期に人生が好転するということは枚挙に暇(いとま)がないのです。そういう経験は誰もがお持ちだと思います。
 特に地上は霊格の異なった魂が同じ環境(霊位)を共有して相互援助している場なのです。

 

病には原因だけでなく目的もある 

 

*4-1.「決して病に苦しんでいる者達の表面に出ている症状だけを治そうなどとは考えてはならない」

 

 なぜこのようなことが起きるのでしょうか。それは病に関して、原因と施しと結果という流れを生んでいる宇宙の法則の理解に乏しいと、それは人の進化を妨げたり、人の進化の足を引っ張ってマイナス進化に導いてしまうからです。そして人にとっての最大の罪とは、正に人の進化の邪魔をすることなのです。前述しましたが、善きと思ってウッカリとしてしまうお節介も進化の妨げとなるのでこれに当たります。私たちが悪と思っていること・・たとえば人間が作った法律を破るということは、これにはまったく当てはまりません。

 逆に言うと人にとっての最大の善行とは、人をその人自身の力で愛と調和が実現できるような成長を促すことのサポートをすることとなるのです。

 

*4-2.「・・ある使命のために自らすすんで病気の身体を持っている者達もいる」・・

 
 地球に生まれる必要のなかったイエスの場合はこの典型ではないかと思える (ただしイエスの場合には病を持って生まれたのではない)。

 

*5.「本人に治療を頼まれていない場合には、病気の治療を試みてはならない」
「本人の改善意欲の発現も必要だからである」・・

 

 私自身病気治しをしている立場から僭越ながら申し上げれば、本人が治す気のない病人ほど治癒の可能性が少なく、例え一時的に治ってもそういう人に限ってちょっと良くなると直ぐに気を抜いてしまって再発するものです。遣り甲斐もなく、空しい思いをするものです。

『我々は侵略しない。しかしながら、この作戦要員の一人が地球人として生きることによって地球人の地位を獲得し、次元を超えた干渉または援助を要請してきたときには、その要請に応えても宇宙の法則を破ることにはならない』 ・・ET地球大作戦(TENBook)より

 

*6.「病気発生までのからくりを正しく理解していない者達は、絶対に病気の治療に手をだしてはならない」・・

 

 この表現をこのまま受け取ってしまうと医師が病気を治すこともしてはならないことと思えてしまうかもしれませんが、それは違うと思います。
 病の治療には幾多の人が関わる人間模様と学びがあります。病を題材とした人それぞれのステージがあり、そこでいかなる動機を以ってしてそれぞれが何を演じるかで正邪は決まってきます(動機が重要である故に、医師が対症療法では治らないと氣づいたにも関わらず保身のために対症療法を続けていれば罪となりましょう)
 既に書いていますが、善行・悪行と呼ばれ条件付けられているものはすべて人間の判断力内の決定事項であって、それは正しいか間違っているかとは別のことなのです。

 

 いずれにせよ、人生において生きるために進んでいる道は何度も岐路に直面しますが、岐路を選択することよりも、岐路に至るまでの路上でどんな進歩的アドリブ(即興的努力)をしていたのかの方が大切なのです。常に「今」を歩いて正しいアドリブを演じていれば、自ずと道は見えてくるのです。

 

悪行も成長への手引き

 

*7.「悪行を成した者達にも感謝したことがあるだろうか」「この感謝とは悪行を成した者に対する直接的な感謝ではない」・・

 

 人の悪行に恨みを持ったり憎しみを抱く人は、悪行を為す役割のある人との接触を要し、彼らを通じて宇宙からの援助を必要とします。


 現生に生きる志摩川さんは、人に対して敵意を持たない限り人から危害を受けないことを経験上分かっているようです。そのようなお話を聞いたことがあります。しかし学び途上にある人はそうはいかないのです。その前に学ぶべきことが山積みされていますから。

 無抵抗になれるまで自分を信じる、つまり神を信じてすべてを許して受け入れるという心境に達するまでは、正義感とか自己犠牲とかいう学びをクリアしなければならないからです。最終的にはこれらのユートピアには必要としない意識を超越するとしても、普通はその前にクリアすべき学びと身に付ける意識があるのです(エゴなどの意識にしても大切なのは無くすということではない。エゴに左右されないことを「超越」といい、これがとても大切な心の在り方になる)


 例えば夜中に凶悪な強盗に遭遇(そうぐう)して家族に刃物が向けられたら、自分の命を犠牲にしても強盗に立ち向かって争う勇気を育むことも、無抵抗になる前の学びです。
 昔、自衛のための戦いを否定する私の高校時代の友人が、自分は朝鮮やロシアから侵略されても無抵抗を貫(つらぬ)くと言いましたが、無抵抗になって悟ったふりをする前に、自己犠牲や愛する者を守ることの勇気を卒業しなければならないのです。真理は絶対であると同時に人それぞれの進化に合わせて人それぞれのアプローチをしてくるのです。


 古市憲寿(ふるいちのりと)氏という若い社会学者が外国が侵略してきたら「自分は逃げる」とテレビ(BSフジ)で発言していましたが、終極の善を全うして幸せを獲得する以前に、人格形成にもその段階があるということを知らぬ者の発言です。

 

*8「善行を成すことにより、そのときの人類全体の平均意識水準を基準としてそれと正反対の位置にある同量の悪行が蔓延ることになるという法則をよく覚えておかねばならない」

 

 相対する正邪善悪の軸そのものを上昇させることです。善悪とするとややこしくなるので「アミ 小さな宇宙人」でいう愛の指数の軸が上昇すると置き換えてみても良いでしょう。

 本来の善悪分岐点の軸と、或る星の行いの(善悪でない)平均指数軸の二つの基軸を考えるのです。

 星の行為の平均指数軸が本来の善悪分岐点より下の悪の中にある星では、ちょっとの善もかなりの悪として反発して相対化されますが、平均指数軸が上の善の中にあれば、指数軸より上の善行の多くも平均軸より下の善行(善悪分岐点軸より上)として発生します。

 善悪分岐点に軸を上げておけば、善行が行われてもその真逆は悪行とならないということなのです。分かりにくい方はご自分で図を書かれれば理解しやすいと思います。
 

*9.「道を進もうとする者達にこれを『困難だ』とか『無謀だ』『不可能だ』などのような陰性の暗示を与えてはならない」

「陰性の暗示は魂の芽を摘みその進化を妨害してしまう可能性がある」

 

 企業などで従業員が失敗をしたときに「君はわが社に〇〇円の損害をもたらした」と従業員を責める企業と、失敗に学んで今後は過ちを犯さないようにと諭す企業と、あなたはどちらの企業に勤めたいですか? 答えは聞かずとも自明ですが、「失敗は成功の元」との格言は宇宙の進化の法則の基本法の一つであるということを理解している人ほど、安易に人を責めないものです。
 その辺のことがよく解かっている魂は(正確には全体意識と直結している人間は)逆光に強いものです。魂は分かっているのです。苦難は進化への試練だと。だからめげず、逆光に対してもむしろファイトを抱くものです。


 昔ある著名な落語家が、婚約したときに言った言葉で「二人で苦難に遭っても乗り越えていきたいとよく言われるが、自分たちはそんなのは嫌だ。苦労のない結婚生活を送りたい」と言いました。しかしそれでは地球に肉体を持って生まれた意味がありません。
 また皇太子殿下が理想の御成婚相手は? と聞かれて「価値観の一緒の人」と言われたことがありましたが、価値観を違えた人を伴侶とすることで進化が早まることもあるのです。
 これは関連記事として「おもいで(その6-1)」で「アダムとイヴの進化の物語」として、彼らがが食したリンゴの話しのところでも書いています。

さやけし(絵:正垣有紀)
さやけし(絵:正垣有紀)

 

入口までは案内する

 

 スピリチャルに造詣(ぞうけい)を深めつつある私たちが、これからスピリチャルな世界に入ろうとする人に対して、導くという立場をとることが起きるでしょう。そのときにこの霊界の指導者の教えを指針としてください。

「神意というものは人から人へ伝えることのできるような性格のものではない」
「神意を言葉や文章、行動などで広めようとしてはならない」

 

 だからこそ映画「マトリックス」でモーフィアスは言いました。「入口までは案内するが扉は自分で開けなければならない」と。
 以前も書きましたが、神意・真理というものは言葉などの五感で伝えることはできません。
 真理は真理と言ったとき、既に真理ではありません。それでイエスは人々から質問を受けても決して直接的な回答は返さずに、譬え話として回答しているのです。つまりこれも「入口までは案内するが扉は自分で開けなければならない」ということなのです。

 

いまここを生きること

 

「もし『他人のために自分を犠牲にすることができるか』と質問をされたときに、この質問に『はい』と答えることのできる者は、その者には勉強と反省が必要である」
「神意に添って生きている人々にはその質問にどう答えてよいのかわからない」


 これはとても重要な教えです。行動に善悪の条件付けをすることは今を生きること、本当の自分を生きることに逆行し、自分を捨てられず、神意とともに生きられないことの典型です。

 自分の人生の中で重要な岐路に立つことは多々あります。他人が人生で重要な岐路に立ったときにある明晰な判断をしたときに、自分だったらそんな判断ができるだろうか?と考えることはよくあることでしょう。
 私は以前「もしも地震などの災害が起きて自分の前に自分の家族と知らないおばあさんの2人が瓦礫の下敷きになっていて、あなたは時間の関係で一人しか救えないとしたらどちらを救いますか?」と、人に意地悪に尋ねたことがあります。

参照 1) )「そして父になる」 2 「思いのままに8」

 

 その人は少し怒って「そんな質問はするものではない」と言いました。この人は良心的な人だと思います。どちらを取っても自責の念を感じることが想像できて、考えたくなかったのだと思います。
 はい、そうなのです。答えは出ないでしょう。
 これは想定問答ですが、その時になってみないと判らないのです。
 そしてその時、私たちは自分の判断ではなくて宇宙から魂を通じてやってくる直観力に従うのです。
 思考を使わない行動、そこにこそ私たちの「道」はあるのです。

  一般的にこんな話はとてもできなかった今から1300年前、死後の霊界に行って度々聞かされていたことを思い出すたびに志摩川さんは思いました。

 

 私は遥か彼方にあるという小さな島国を心の中に思い浮べ、『気の遠くなるくらい長い先の話だなあ』と考えていた。