* おもいで(その21)石切との出会い 1

 今回の話は「いつの年代のことであるかよくわかりませんが、場所は今のアンデスのあたりではないかと思われます」と、当時発表された雑誌の編集者は前書きを挿入しています。

私(管理人)はこれはマチュピチュか或いはその近郊の町(クスコ辺り)ではないかと思っています。

 今回の21話と次の22話は全24回のストーリーの中で最もワクワクする話です。
 いつかは誰もが心を洗って感情に流されずこのようなことが出来るようになるユートピアを実現することになるのです。

 

ペルークスコの石積み
ペルークスコの石積み

 私は高原で育った小さな男の子であった。高原といっても草は少なく土は乾いているときの方が多かった。私はその上を一日中元気一杯に走りまわっていた。お腹の空いたときと眠たくなったとき以外はいつも家の外で遊びまわっていた。
 私には仲の良い友達が一人いた。二人は走りまわるのに退屈すると、よく石の切出し場に遊びにいった。そこでは大人の男達が器用に岩場から石を彫り出していた。彼等は作業中に子供が側に寄ってきても絶対に怒ろうとしなかった。多くの場合、石はだいたい直方体に近い形に彫られていた。そしてその出来上がりは見事という他なく、目で見る限り平面に近いものであった。一人がその石を完成させると、他の男達は手を休めて石の回りに集まってきた。ある程度の人数の人達が集まると、不思議なことにその重い石を楽々と持ち上げそれをそのまま移動させていった。土の緩やかな斜面を上っていくと、既に積みあげられている石垣の上にその石をゆっくりと下ろした。その石はぴったりとそこに収り石垣の一部となっていた。私達は声も出せずにその作業の一部始終を見ていた。移動の作業を終えて戻りかけたところを見計らって声をかけた。
「僕達も、おじさん達のように、ああいう立派な石垣を作るんだ」
これを聞いて優しい目をしながら一人が答えた。
「もう少し大きくなったらな」
「うん!」
私達はまた高原に向かって走りだした。
「大きくなったら、一緒にやろう!」
「うん!」
お互いの目をじっと見ながら固い約束を交わした。
 二人は高原を走りまわりながらすくすくと元気に育っていった。十歳を過ぎる頃に石垣作りの勉強のチャンスが与えられていた。もちろん自分達はその年齢に達するとすぐに申し込みをした。同年代の子供達が何人か集まっていた。本人自らが希望する子供達は全員受け入れられた。授業は石の切出し場のすぐそばの地面の上で行なわれた。


Art by T.Shimagawa
Art by T.Shimagawa

「いいか、これは心の勉強だぞ」「自分のために‥という考え方は捨てなければならない」「家の名誉のために‥という考え方もこれと同じだぞ」
「それから、『期待する』という考え方もしてはならない」「それは邪魔になるだけだ」「石垣が積めるようになったら、どうなるとか‥」「石が切れるようになれば、こういうことができるとか‥」「それに、この勉強をしたから、石が切れて石垣が作れるようになるとか‥」「こんなことばかり考えていると、全く逆の効果を生むことになるぞ」
「石が切れて石垣が作れるようになったからといって、特別な人間になったということではないぞ」「今この勉強をしているからといって、選ばれた人間だと思い込んで得意になってしまってはいけない」

「この授業を受けていないからといって、またこの能力を行使できないからといって、その人が劣っていると思い込んではならない」「人はみな同じである」「老若男女全てが同じである」「それが神であろうと悪霊であろうと全て同じである」「全てが自分であり他人である」「そして全てが他人であり自分である」
「誰も怒ってはならないぞ」「罵ってはならないぞ」「愚痴を言ってはならないぞ」「不平や不満も言ってはならないぞ」「言ってはならないのはもちろんのこと、思ってもいけないぞ」「そして、心に浮かんでくるだけでもいけないぞ」「それは他人に対することであっても自分に対することであっても同様にいけないことなんだぞ」
「乱暴されても、攻撃されても、絶対に抵抗してはいけない」「防御さえもいけない」「されるままになれ」「他人を助ける場合にも絶対に抵抗攻撃をしてはいけない」「そのときはその人の代わりとして乱暴されるままになれ、攻撃されるままになれ」

「いいか、加害者である彼等は、偏り過ぎた今までのバランスを修正するための、軌道を本来の道に戻すための役割を担う適任者なのである」「その乱暴・攻撃は神のわざであると思え」「それは神の愛ともいえる」「殺されても、恨むな」「それを自然(神)の愛として感謝できるようにしておけ」
「だからといって無闇やたらと犠牲になれというのではないぞ」「犠牲の道よりも調和の道の方がはるかに尊い」「神もそれを望んでいるはずだ」
「この理(ことわり)を知った者は、これを同様に知った仲間が他人から乱暴されていたとしても助けてはいけない」「これを助けることは神の愛に反抗することになる」「本人の成長進化を妨害することになる」「それは本人に対してひじょうに失礼な行為となる」「もしそれを黙って見ていられないのならば、その人の痛み・苦しみを共に分かち合え」
「なお、この理を知った上でなお他人を乱暴・攻撃を加えた者は、たとえ後で反省をしたとしても一切許されない」「永遠に業火に焼かれて苦しむものと覚悟せよ」
「他人に為した行為は必ず自分に戻ってくるものであるが、その戻ってくることを期待して行為してはならない」「自分に返ってくることは一切期待をするな」「思ってもいけない」

「期待をするということは、自分と他人との間に大きく線を引くということである」「自分を特別扱いするということである」「自分のことだけ考えるということである」「そのような者には、石を扱うことはできない」「何も期待してはいけない」「石のことについても何も期待してはいけない」「善悪についても考えてはいけない」「真の善悪とは人知を越えるものである」「善悪について考えるだけでも、愚かな期待が入ってくる」

「何の期待もしてはいけない」「思ってもいけない」「心に何の期待も入れてはいけないぞ」「純粋になれ」「自然(神)に対して素直になれ」

「心に身体に自然(神)を満たし、自分自身が管となってそのエネルギーを放出しろ」「自分自身のエネルギーを放出するのではないぞ」「気をつけろ」「自分自身を使って自然(神)のエネルギーを通すだけだぞ」「ここを間違うのではないぞ」「絶対に忘れるんじゃあないぞ」

「問いかけは良いが、疑問はもってはいけない」「問いかけをするときには、真剣に内なる自分に問いかけろ」「絶対に疑いの心をもってはいけない」「自然な状態でその解答が返ってくる」

「盲信は身も心も滅ぼすぞ」「盲信は心の調和の乱れが一つの原因だともいえる」「普段の生活の心構えがしっかりしていないところから心の不調和が生じる」

「だからといって毎日規則正しくしろ…というのではないぞ」「規則正しい生活を続けることによって、自分自身を狭い枠に閉じ込め、自分の神性を眠らせてしまうことがあるぞ」「規則正しい生活に縛られると、それにより惰性と盲信を生み出し、進むべき道を踏み外すことにもなるぞ」

「心の調和とは自然(神)との調和から生まれ、自然(神)との調和は心の調和から生まれる」「そして、この調和は石組みを作製する上で絶対に不可欠のものである」

「これらと調和するためには、いったいどのようにしたらよいのか」「それはこれから毎日の生活の中で実際に体験し、自分で学んでいかなければならない」「くれぐれも言っておくが、石組みを作るということに絶対に心を囚われないように気をつけておきなさい」


UFO Art by T.Shimagawa
UFO Art by T.Shimagawa

 最初は今までの固定化した生活感を取崩すことから始まった。毎日授業で、ぼうっとすることをやらされた。

『こういうときにはこうしなければならない』とか『絶対にこうあるべきだ』とか『こうでなくてはならない』とかいう常識として心にしみこまされてきたものを、すべて白紙に戻す作業であった。

 毎日ぼうっとしているのだが、遊びまわっていいわけではなかった。ぼうっとしていることが勉強であった。何もしないということをして、何も考えないということをした。しないということを一生懸命するのではなく、また一切何もしないというのでもなかった。何もしないということをするということは、自然な状態というものを観じる上で最も必要なことであった。

 それは怠惰とは全く逆方向のものであって、それをすることにより自分の心が以前と比べてしっかりとしてきているのがよくわかった。家に帰ってもそれをしているため、それを知らない両親から非難の声が毎日上がった。授業の内容は外部には話してはいけないことになっていたので、そのおかげで不動心も充分に養うことができた。もちろん先生は両親の訴えを全く相手にせず、そして先生と目が合うと両親はそれ以上何も言えなくなった。
 自然な状態というものを観じ始めたころ、『調和』の勉強に入った。それは微妙でかすかな周波数帯に波長を合わせるようなものであった。合わせようとして合わせるものではなく、自然な状態で意識せずに何も期待せずに目的のものに合わせるという難しいものであった。そしてその『調和』の練習をしていると、そのときの一呼吸一呼吸が深くゆったりと長くなっていった。
 それから石を刻む練習に入った。『調和』を得ることにより、岩を必要な大きさ必要な形に刻むことができるようになるとのことであった。先ず準備段階として、固まった土を素手で壊す動作を何回もやらされた。無心でそれをやらなければならなかった。それは石を切るための『イメージ』を心に刻みつけておくための訓練であった。
 石を実際に削る課程に入ると、各自のその能力の差が歴然として見えてきた。友人は石を削ることができなかった。彼は私に次のように言った。

 

「こんなこと、最初から信じていなかったんだ」「だいいち、こんなことができるわけがないじゃないか」
「もう少し我慢して勉強すれば、君にもできるようになるよ」
「何言ってるんだ」「そんなこと信じられるか」「騙されたんだ」「おまえも、ぐるだろう」
「そんなことないよ」
「嘘だ」「馬鹿にするんじゃない!」「何か仕掛けがあるに決まっている!」「みんなで俺を騙しているんだ!」「これ以上騙されてなるもんか!」
「誰もそんなことするわけがないじゃないか」
「ふん!」
彼を止めることはできなかった。彼は自らの意思でこの勉強から去っていった。そしてここを出るとすぐに言いたい放題の悪口をあちらこちらに言いふらし始めた。家の内外で我々に冷たい視線が投げかけられているのが感じられた。

御神燈 Art by T.Shimagawa
御神燈 Art by T.Shimagawa


 数日後、町の男達が作業場の様子を見にきた。しかし、いくら調べてもどのような方法で大きな石組みが作れるのか彼等には全く理解ができなかった。目の前で重い石が削られ組み上げられていくのをまざまざと見た彼等の口からは、もう言葉が出なかった。彼等は神の御業を見ているような表情をしていた、そして丁重な挨拶をして町に帰っていった。友人は信用を失い、町の人達にまともに相手をされなくなってしまった。
 石がきれいに切れるようになったころ、次の勉強に進んだ。
「いいか」「素直の素(す)になれ」「そして自分に教えてもらえ」「自分の内なる指示に従え」「それに逆らうんじゃないぞ」「素直の素(す)に従え」「各自それに従って、この岩場から実際に石を切り出してみるんだ」「他人の石の大きさや形は気にしてはいけないぞ」「さあ、やってみなさい」
 それぞれ大人の作業に邪魔にならないところを選んで、石の切り出しを始めた。私は他の人達のことを気にせずに、心に浮かんでくるままに岩を削ってみた。すると両手に収まるぐらいの直方体の石ができあがった。全員が完成すると、それを先生のところへ持ち寄った。集められた石の形は四角を基本とするものがほとんどで、大きさもだいたい同じようなものであった。先生はそれを手際よく組み立てた。見るまに石垣のミニチュアができあがった。組み上げられた石と石の間には隙間がなかった。

「一人一人がそれぞれを分担し、できあがったものを集めることにより一つの大きなものが生じたのはよくわかったろう」
「いいか」「二人以上の集団ができると、その中にはあるエネルギーが生じてくる」「そして、目的ができると、方向性と意思がそのエネルギーにできあがる」「すると、それぞれの人達にそれぞれの役割が与えられることになる」「企画をする者もいれば、指揮をとる者もいる」「製作だけにあたる者もいる」「だがそれぞれの役割の価値に上下はない」「全ての役割がそれぞれ必要とされているのだ」「これが、全宇宙全階層を貫く一つの大きな原理だ」
「そのエネルギーの意思と方向性が人々に役にたつものか、あるいはそれが邪悪のものでないかどうか」「いかに、従うべきエネルギーの意思にそえるか」「今までの勉強でそれらは充分にわかるはずだ」「もう、おまえ達は実際の作業に手伝いとして携わることができる」「そのエネ ルギーにどんな役割をあたえられようとも、それはおまえ達がそのエネルギーに必要とされているということだ」「役割に不平不満をもってはいけないぞ」「役割に良い役割、悪い役割なんてものは、無いからな」
早速、私達は大人の仲間達の間に入ってお手伝いをすることになった。

 

管理人所感

 

 私が毎月寄稿している「宇宙の理」の宇宙学では、自己確立が盛んに謳われています。
自己確立とは霊的自立であり、真の自立は全体と一つになるということであるという、全く異なっていると思われる二つの状況は実は一つであり、個々の自立があって初めて全体の調和が成り立つということが解るのです。
 自立とは全体の役割を正しく判断して全体の調和に寄与できるということです。
現代では良いこととされている競争意識… 自立して人と競争する、などと言うのは愛と調和とは真逆の方向です。
 霊的自立とは、言葉や法律などの善悪の決まり事からの判断ではなくて、全体からやってくる意思を自分の直観で分かるということです。

 個と全体の調和とは個が個として自立することで真の共同創造が成り立つということなのです。

今回と次回のストーリーは自己確立の過程を実に判りやすく著わしています。

 

 石切の先生の話はなかなか納得のいかない人もいるかもしれませんが、人には進化の段階があります。人が攻撃を受けていても自分を犠牲にし助けようということが恐怖心からできない人がいます。そういう人は相手と戦って助ける勇気を学ぶ必要があるわけです。

 志摩川さんが生きた時代で石切を学ぶためにはそういう善悪の判断をすべてなくして、悪が持っている役割を受け入れるということが必要なのでしょう。元々善悪とは人が決めたことであって、人間の思考ではそもそも、
 正しいことと間違っていることの判断、正しいことと良いことの違いの判断はできないのです

 だから判断しないで直観で動くことが大切になるのです。
 また石切の初めの練習、何も考えないことをする、何もしないことをする、ということが重要ということは、私たちは日々瞑想を怠らずにする必要性を感じますね。

 

カミソリの刃の通らない石積み。

電気の無い時代に、セメントも使わずにどうしたらこんなことできるのでしょうか?