* おもいで(その25)ユートピアに向けて“今”必要なこと

 

 「おもいで」は「生命(いのち)の樹」という会員限定の雑誌に数年に亘って「前生のおもいで」というタイトルで掲載されましたが、「おもいで25」は、事情があって掲載されず、「おもいで24」で、打ち切られました。

 ハッキリ覚えていませんが30年近く前のことだったと思います。ですから当時「生命の樹」を読まれていた方も今回の文書には初めて出会うことになります。

 紛失していた原稿が突然出て来たようですが、30年間眠っていた意味もあるようです。

 

 アセンションの夜明けの晩である今、私たち人類に必要なことのヒントが述べられています。私たちは今、ユートピアへの入り口に居ますが、ユートピアへの移行には地球社会の建て替えという試練をどうしても経験しなければなりません。


 建て替えを経験するには、こだわりや既成概念、生への執着までも捨てる必要があります。何故なら、幸不幸の出来事に被害者意識を持ったり、善悪の感情を好き嫌いで起こし反発するのも逃げるのも、今後そんな意識を変えないと大変な悲壮感を味わってしまう時代の入り口にいるからです。


 出来事をすべて自分のこととして受け入れ、或いは人類全体の連鎖経験の一部として受け入れ、一切の善悪の概念、恨みつらみ、憎しみといった「不幸を人の所為にする意識」から旅立つ必要があるのです。

 そうしないと、これからの世の中は怒り、恐怖、恨み、咎め、心配心、妬み、羨み、悲しみの悲壮感で覆われてしまい、ますます本当の自分を生きることが難しくなるからです。
 心を洗い本当の自分(真我)である魂と繋がって神の計画を受け入れて生きることが必須になります。

 

 さて下記の「おもいで25」の本文中に「私は弟よりも年が下であった」とあります。なぜ? と思うかも知れませんが、志摩川さんは生まれ変わった今世で嘗ての弟さんと会っていて、その時に「おもいで その25」を書きました。年が逆転して弟さんが先に生まれていたということです。

 

 この「おもいで その25」は第二次対戦前から戦中にかけてのお話で「おもいで その1」での前生に続きます。
 

Art by Tomoshige Shimagawa
Art by Tomoshige Shimagawa

 

 私には以前から不思議な力があった。それは、目の前にいる人の身に将来起こるであろう事柄がはっきりとわかることがあった。それを意識していないときにそれが頭の中に浮かんできた。誰でも全ての人のことが浮かぶわけではなかったが、それが外れたということはまだ一度も無かった。

 私が知りたいという意思をもってそれを頭に浮かばせるというわけではなかった。それは私の意思とは無関係に勝手に頭に浮かんでくるのであった。だが、それがいつもあまりにも事実にぴたりと一致しすぎているので、私は一つのひじょうに大きな心配事を持つことになった。それは私の弟のことであった。弟の将来のあるときの姿がはっきりと手にとるようにわかっていたからであった。

 弟は心の勉強を欠かさずに一生懸命やっていた。その熱心さには人一倍のものがあり、それは賞賛されるべきものであった。だが弟は自分の感激と感動にのめり込みすぎていた。自分で作った小さな世界に入り込みそこに自ら落ち込もうとしていた。弟はもうこの世界しか他に自分の行くところはないものと考えていた。勉強の題材はこの世では最高の水準に並ぶであろう素晴らしいものであったのだが‥。

 勉強すればするほどそれは本来の姿から遠ざかっていった。何か大切な大事なものを忘れ去っていた。そして『相手のことを思う』ということの本来からの意味を理解してはいなかった。『愛』についての勉強をしていながら真の『愛』というものを知ってはいなかった。脳で勉強したことによって知識として頭には入るのだが、脳への記憶としての知識として止まっていたので、その反動として心が萎縮をしはじめていた。学んだつもりのその「愛」は、薄っぺらな愛として弟の魂に記録されていった。そしてその知識は、この世限りのもので、本人の気持ちに反し、かえって薄情な人として他人の心に映るだけのものであったのだ。

Art by Tomoshige Shimagawa
Art by Tomoshige Shimagawa

 弟は自分のしている勉強が正しいと思うあまり、外を見るということをしなかった。外は見てはいけないことだと思っているようであった。この種のことだけを勉強していればいいのだと思っているようであった。自分の信じていることは広めようとするのだが、広めようとすることに気持ちが先に立ってしまい、他人の言葉を聞くことのできる気持ちの余裕というものがなかった。相手のことを思うまでに気を配ることはできていなかった。弟は知らず知らずのうちに自ら自分と他人との間に壁を作っていった。
 弟は自分の信じていることを進めるているうちに、他人の気持ちを理解できない人間に変わり始めていった。その現象はそれを押し進めているときに顕著に現れ始めた。その言葉には、いつの間にか、いわゆる硫黄の毒と荊の棘が含まれていくようになっていた。でも弟はその行動が正しいことだと信じきっていて、その事実には全く気がついていなかった。心ある人達の心もしだいに弟から離れていった。弟はそれもわからずに、自分だけの小さな世界に閉じ籠っていった。

 この宇宙には『不変の法則』があり、それが全てのものを導いている、ということを人に知らせることは許されていた。しかし、弟は人が本来進むべき道への薄っぺらな表面だけの安易な近道や真理についての自分なりの誤った知識を人に教えようとしていた。それは人を堕落に導く恐ろしい道筋であった。弟は初心を忘れていた。弟はいつも人のため世の中のためになることを考えてきたはずなのだが、それはいつの間にかすり替わってしまっていた。そして弟は偉大なるものへの感謝さえ忘れていた。謙虚さは形だけの言葉だけの謙虚さであった。

 弟は『進歩』という大きな流れの川にどっぷりとつかっていたが、その流れに全てを身を任せるということができなかった。弟は「偉大な愛」の流れの中にいながら、その「愛」の存在に気がついていなかった。弟は『こだわり』という名の岸辺の草にしがみついていた。そこから手を離すという方法は絶対に考えてはいけないことだと思っていた。そしてそれが正しい真理の道であるとも思っていた。その「こだわり」にしがみついている弟に『進歩』の川の流れとともに流れてきた人達が引っ掛かった。

Art by Yuki Shogaki
Art by Yuki Shogaki

   弟はそこから離れまいと必死になって自分の身体にその草を巻きつけた。人が引っ掛かる度にその流れの滞りが大きくなってきた。弟のまわりが澱んできた。そこには本来あるべき生き生きとした生命エネルギーがしだいに見られなくなっていった。
 弟は自分の進む道が最高だと固く信じ、それを全く疑っていなかった。もちろん弟は善良で心掛けもよく、目標も素晴らしいものを掲げ、人の手本となるようなことを実行していた。しかしその本質は暗く病的であり、他人に狂信的とまで見られるおそれがでてきていた。目標は良いのに、言っていることも良いのに‥。何かが違っていた。どこかがすり替わっていた。目のつけどころは間違っていなかったのだが、心の目で見、心の耳で聞くことを忘れてしまっていた。いつのまにか肉の目や肉の耳だけで見聞きするようになっていた。

 私は弟の将来のことが心配で心配でたまらなかった。私はこれらのことが自分の思い過ごしであればいいと思った。そのとき、私が将来のあるときに弟と再会しているその場面がはっきりと頭に浮かんできた。

 (この文書を書いている時の)私は弟よりも年が下であった‥。弟は私が言おうとすることを聞くだけの心の余裕を持っていないようであった。一瞬私は呆然とした。しかし、私はすぐに気を取り直し、私の予感が弟のことについてだけでも外れてほしいと切に願った。

 『まてよ‥』『予知ができるということと、それが必ず後で実現するということは‥』
 『未来におこることはすでに決定されていることになってしまう‥』『でも、今まで全部予知したとおりになってきたのは事実であるし‥』『それならば、人間はいったい何のために生まれ、何のために生きているというのであろうか』『運命というものは最初から最後まですでに決められているものであって、人間はただそれに従って生きているだけの生き物だということであろうか』
 『人は、争いごとで殺されるために生まれてきたというのだろうか‥』『病気で苦しみぬいて死ぬために生まれてきたのだろうか‥』『幸せを願いながら、不幸に陥るために生まれてきたというのだろうか』『みなそれぞれの希望を胸に抱きつつ、いろいろな目に遭遇しながら挫折していく』『人生とは、予め決められた不幸に向かって進んでいく、ということなのだろうか』『もしそうならば、生きるということは何の意味があるのというだろうか』
 『弟がこうなるならば、心について書いてある本なんか見せなければよかった』『でもこれも前もって決められていたこと‥なのだろうか』

 弟の暗い姿が頭に浮かんだ。

Art by Tomoshige Shimagawa
Art by Tomoshige Shimagawa

 

  『前もって弟に注意を促しておけばそれは避けられることなのであろうか‥』
 私は一人で考え続けた。真剣に求め続けた結果として一つの回答らしきものが直感として一瞬のうちに浮かんできた。

 人間は確かに一つの枠組みのようなものの中で生きてくようになっている。その枠組みは人それぞれ違うものが与えられている。そして人生の要所要所には前もって定められていた事がその予定どおりに必ず起きるようになっている。それは人間個人だけに限らず、その団体や家、町、国、人類全体そして地球や宇宙、そしてそれよりも大きなものについてまでも全てに同じような仕組みが組み込まれている。
 しかし、それらの枠組みや予定はむやみやたらと勝手に作られているものではない。それらはそれぞれの過去を要因としながら、それぞれの成長や特質・器などに合わせた試練として、それぞれの成長のために与えられている。それがどんな形のものであろうとも、それは過去のさまざまな積み重ねの上に立っているものであり、将来の進歩向上を可能にする素晴らしい試練である。それはその気になって自分を変えていけば必ず誰にでも乗り越えられるものであり、決して本人を押さえつけたり、押しつぶしたりする目的で存在しているのではない。そしてそれが成功するまで、これらの予定が新たに追加されていくことになる。このことは本人がどこかで必ず了承しているはずである。

 私の予感が百パーセントの確率で的中するのかどうかはわからないが、もしそれが本当に実際に起こることとするならば、それは必要かつ重要な試練の場が弟に対して与えられているということを意味しているのであろうと思った。

 『弟にはそれだけの器とその役目をこなすだけの力を持っていて、必ずそれを乗り越えることができるのだ』
 私はこのように考え、弟の人間的な器と力を全面的に信じていくことにした。

 私は弟に自分の気持ちを伝えたいと思ったが、伝えたい気持ちばかりが焦った。日常の会話とはまるっきり違う突拍子もない話であるので、話しているうちに自分でも何を言っているのかわからなくなり、その内容も支離滅裂になってきた。これでは弟が混乱してしまうと思い、その話を途中で打ち切ってこう言った。
 「その頃になったら、また会おう」「必ず、会いに行くからね」「頑張れよ」
 しかし、生まれ変わってからまた出会う‥なんていうことは、弟には言えなかった。

 

 大学を卒業すると、私は志願して軍人になった。軍人になってそこで偉くなろうなんていう気持ちは少しもなかった。特に深い考えがあったわけでもなく、親元から離れたいという理由からだけで軍隊に入った。家族から離れてみると、どういうわけか本来の自分に戻ったような、心から自由になったような気持ちがした。心の重荷が取れたようなすっきりとした晴れやかな気分であった。

 

Art by Tomoshige Shimagawa
Art by Tomoshige Shimagawa

 

 

管理人の所感

 

 志摩川さんの弟さんは、前生で真理を求めていて真理とは反対方向の知識に向かってしまったようです。
 真理は知識の中には無く、真理は真理の世界からのみ受け取ることができます。
 真理は一人ひとり異なるからです。概念として存在しているものは一切真理ではありません。

 

 先日、数人で或る方の話を聞いていたらその人は多くの人に「愛を言葉で表現することはできない」と言っていました。確かに愛は真理同様、形而上の実在なので厳密にはそのように言うことができます。
 魂であれ心であれ、私たちは三次元世界において目に見えない世界の終極の愛を表現するという学びをしています。
 また唯一絶対の愛の世界に辿り着くために、愛に近い「美」を私たちは表現しようとしています。
 「芸術」の世界において人はそれを行っています。
 芸術を探求することは美を探求することであり、三次元の幻想の世界において音や文字、色、形という三次元の道具(制限)を用いて四次元の存在である美をいかに表現するかということです。

 現実であれ人生であれ、三次元(制限)の多い世界というのはそれだけ真理から遠ざかります。


 ちょっと愛や真理を表現することについて芸術などを材料に考えてみましょう。

 小説と詩を比べてみても、小説はとても具体的な芸術ですが、それだけ読者の想像力を一定の方向に定めます。
 一方詩は、限定される言葉が少ないだけ読者の自由な発想を可能にします。
 江戸時代の日本人が美の表現者として優れていたかは、俳句や川柳や短歌という文化が栄えたことからもうかがえます(今は眠らされている)。
 日本古来のスポーツや芸術といった文化を具体的に見ていくと、そこには更に日本人の一体感、神との一体感をうかがい知ることができます。

 

 今(2016年8月)はブラジルオリンピックの開催中ですが、日本から生まれたオリンピック種目は何がありますでしょうか。柔道ぐらいではないでしょうか。
 その柔道もスポーツではなくて武道・柔術と観ることができます。
 世界中で日本民族は最も神と直接繋がることのできる民族ですので、スポーツを通じて調和を学ぶ必要がさほどなかったのです。
 欧米人はスポーツを通じで調和と規律(ルール)に従うことを学ぶ必要があったのです。

 スポーツ全般を見てみても、スポーツそれ自体が日本には余り存在していません。相撲、弓道、剣道ぐらいしか思い浮かびません。
 柔道や弓道は「道」とあるように重きが置かれたのは勝敗というより、心身を磨くことではなかったでしょうか。人の生き方と関係がありますし、相撲の原点も五穀豊穣を願う神道の儀式でした。
 そしてそのほとんどが個人技です。

 音楽に関しても日本の楽器は三味線、太鼓,琴、笛などの楽器が多いのでが、これらはすべて一人で演奏することの多いものです。おおよそ他とのアンサンブルを図るということをしません。
  太鼓ひとつ取ってみても西洋がリズムを取るものであるのに対し、和太鼓は独奏用となることが多いのです。 西洋ではデュエットからオーケストラまで、調和を演出する形態が豊富にあります。

 舞踊を見てみましょう。西洋のバレーはソロもありますが、基本は集団で踊ります。逆に日本舞踊は集団で踊るということをしません。ソロが主体です。
 このように、日本の芸術やスポーツ文化は、西洋のものと比べ協調性を必要としていないのです。
 そしてきわめて単純。
 一人ひとりが神と直接繋がることで、実は志摩川さんの「石切り」の前生にもあったような集団作業の調和が成り立つのです。

 人と人が直接繋がるのではなくて、中心を通じてそれぞれが繋がるのです。
 意思提示、意思提案しているのは個ではなくて中心であり、個はそれに同意して行動するのです。
 だから所謂投票による民主主義はユートピアには存在していません。
 日本の天皇制(中心)の意味もそこにあるのです。
 これは愛の原理です。愛も人の中に個性を持ってあるのではなくて、天から流れてくるものです。愛の心という器の中に。ですからAさんの愛もBさんの愛もCさんの愛も同じものなのです。

 

 さて冒頭で、愛とは言葉で表現することができないと言った人が居たと書きましたが、次元が違うのでもちろん100%正しく表現することはできませんが、概要は簡単に語れます。

 それは「自他一体」です。

 だから「私はあなたを世界で誰よりも愛している」という表現は正しい表現ではありません。これは単なる好き嫌いです。この場合は「あなたが世界で一番好き」が正しい表現です。愛には区別がないからです。
 
 ちょっと話が横にずれましたが、志摩川さんの弟さんが唯一絶対の真理、常に動いている真理を固定化しようという意志をもっていたことは明らかですが、唯一絶対の真理は誰にとっても唯一絶対であるという普遍性を持ちます。しかし同時に真理は人と繋がるとき、真理自信を人それぞれが理解して体現するために常に変幻した状態でそれぞれの人に現われているのです。
 宇宙の最終目的は愛の習得ですが、それを習得する道はいろいろあって人それぞれです。
 これが正しいという概念は一つもありません。
 意識の成長が進化であり、進化は愛の方向性に進みます。
 それを成すが為に、いわゆる「悪」というものを私たちは実行(経験)する必要があるのです。
 起きていることはすべて経験であり、起きていることのすべてを受け入れるということが今後は必須になります。
 「不運」についても同じです。具体的に書いてしまうと反発を受けそうですが、世の中では凶悪犯罪や突然の事故や天変地異で多くの被害者が出ています。それを運・不運で片付けていますが、全部カルマなどの理由があります。被害者は存在していません。
 被害という劇の舞台においては被害者が主役です。被害を演じる必要があるから被害を受けただけです。加害者も同じで加害という役割(或る意味カルマを背負う犠牲)を演じたのです。

 真理の探究においても「真理」の概念が善悪のような形のようなものとして存在しているという観念をもってそれを求めていると真理に辿り着くことはありません。

 文中に「この宇宙には不変の法則があり…」とありますが、この考えを執拗に追うと自分だけでなく人を間違った方向に導く恐れがあります。具体的に不変の法則とはどの法則と定めていないのでそれぞれが勝手に、これはこうあるべきと決め付けてしまうのです。
 しかしそれは殆どが間違っています。真理は常に動いているということと、人それぞれにとって唯一絶対の真理は変化して異なるからです。中々この考え方に賛同できる人はいないかも知れませんが、すべての存在、全ての出来事は神の手の平の上で起きています。

 

 私たちが悪と呼んでいることも不幸と判断しているものも、すべては神が許して存在し、起きています。神が許している意思を観ず、私たちは好き嫌いの判断をしていますが、 善も悪も神が必要と認めたから存在しているのです。だから善悪は人間の観念の世界にあっても神の世界にはありません。善悪とは人間の意思の入っている人間が作った幻想です。
 だから真理を固定化することは神の意思から離れることになってしまうのです。

 真理は唯一絶対であり、同時に宇宙のすべてに対して普遍性を持ちますが、それが人間に分かるように現れる時、その時その時、人それぞれに分かるような直観として現れてきます。

 

「あっ、そうか! 分かった!」 それが真理です。

 

 私たちがすることは、それを嫌ったり憎んだりすることではなくて、ただただそれを受け入れて向かい合うことです。その理由(因縁)をただじっと見詰めたり、対処の方途を自分の中に聞いたりすることです。

 私たちの生活それ自体が愛の表現の舞台であり、私たちは愛の表現者としてのアーチストなのです。生きることは芸術なのです。
 私たちが愛の人となったとき、私たちは愛で一つに繋がります。