おもいで(その15-16)の続きで、この前生は次回(その18)まで続きます。(志摩川)
あちらこちらをだいぶ歩きまわったので腹が空いてきた。酒場に入るとすぐに料理を注文した。ゆっくりと食べようとはしたが、すぐに食べ終わった。何もしないでただ座っているだけでは申し訳ないと思い、もう一つ別の料理をたのんだ。だが料理だけで朝まで時間をもたすことはできるはずがなかった。もちろんこれもすぐに無くなった。
次におつまみを注文してみた。飲む気がないのならば出ていってくれとでも言いたげな表情をして酒場の主人が近寄ってきた。しかたなく私達は酒を飲むことにした。酒を飲んだところでちっとも楽しいことはなかった。母に手渡そうと思って大切にとっておいた自分の給料が少しずつ減っていった。無駄なことに使っていると思うと残念でたまらなかった。
酔いで頭がふらふらしてきた。うとうととしてきて瞼が下がってくるのだが、どういうわけかすぐに目がさめてしまう。早く夜が明けてほしいと思えば思うほど余計に時間が長く感じられてくる。外は真暗闇で太陽が顔を出すまでにはまだかなりの時間がかかりそうである。他にすることもなく、仕方なしに酒の入った小さなグラスを口にはこんだ。頭が重くなり、口もよくまわらなくなってきた。自分の指も思うようには動かせなり、グラスをつかむことだけに全神経をやっとのことで集中させていた。
意識が戻っていくような感じがした。私は木の板のようなものに頭をのせていた。周囲の雑音がしだいに大きくなってきた。今まで自分がどこでどうしていたのか全くわからなかった。少しずつ記憶の糸をたどるようにして思い出していった。私は酒場で酒に酔って椅子に座ったまま寝込んでいた。頭がまだくらくらしていた。頭を起こして窓の外に目をやると空がやや明るくなっていた。私は外に出ることにした。彼も私の後についてきた。まだ空気は冷たいが酔いを冷ますのにはちょうど良かった。白い息を吐きながらまだ誰もいない道を歩いた。もう自分達が乗ってきた船に戻ることしか頭になかった。
船の前には例の二人が眠そうな顔をしながら小銃を持って立っていた。私は彼等を刺激しないくらいの距離をおいて桟橋に座り込んだ。ちょうどあの上官が朝のきれいな空気を吸うために船から下りてきた。
「朝早くからこんなところで何をしている」「酒をたっぷり飲んできたか?」
「ええ、まあ」
「こんなときにしか、羽をのばせないからな」「もっとゆっくり楽しんでこい」
「いいんです、もう」
上官が船に戻りはじめたので、いそいでその後についていった。その上官にわざと親しそうに話しかけながら警備をしている彼等の前を通った。小銃を前に持って不動の姿勢をしていたので、私は軽く手を上げて彼等にニコッと挨拶をした。彼等はそれを見ると変な顔をした。
「実は、昨日ここに戻ってきたんですけど、下で警備をしている彼等が入れてくれなかったんですけど」
「彼等を恨むな」「職務を忠実に全うしただけだ」
「あれじゃあ、自分達は船に戻れないじゃないですか」
「いつもは皆、言い渡された刻限にしか戻ってこないからな」
「身分証があれば入れるとか言っていましたが、自分はそういうものを渡された覚えがないんですが」
「そういえば、そういうものは誰にも渡したことがないな」
上官はそう言うと急がしそうにしてどこかへ行ってしまった。私達はお互いに顔を見合わせて首を横に振った。そして自分達の船室に戻ってそれぞれのベッドの上に腰を下ろした。なぜかここが一番心が落ち着くところとなっていた。
窓が一つも無い船室に閉籠っいると、どのくらいの時間が経ったのか全くわからなかった。そのうちに部屋の仲間達が帰ってきた。外出していた者達を見ると、どの顔も満足そうな表情をしていた。すぐに出航となった。今まで静かだったエンジンの音がまた騒がしくなってきた。いつもの交替制の仕事が再び始まった。騒音が大きい船底の暗い船室での環境の悪いひじょうにきつい仕事であったが、これでも慣れてくるとなかなか楽しいものであった。
海に出てだいぶ経ったころ、友達の身体の具合が急に悪くなってきた。苦しそうにしていたので、すぐに彼をべッドに寝かせた。
「あのう、申し訳ないんですが!」「彼、具合が悪くなっちゃいまして!」「彼のために何か食べやすく身体に良い食事作ってくれないでしょうか!」
「おまえ、何もつくれないんだっけな!」
「はい!」
「ついでに、おまえのも作るんだろう!」
「すみません!」「有難うございます!」
休ませておけば少しは良くなるものと思っていたが、一向に回復する兆しは出てこなかった。誰かが彼を見てこう言った、
「こりゃあ、駄目だな!」
私は上官の部屋に飛んで行った、
「なんだ!」
「実は!」「友人の身体の具合が悪くなりまして!」
「それなら、部屋で休ませておけ!」「その分、おまえが働くんだぞ!」
「それは、もちろん!」「でも、休ませてはいるんですが、少しも良くはならないんです!」
「ほう!」
「あのままにしておくと、彼は死んでしまいます!」
「そんなに容体が重いのか!」
「はい!」
「彼には適切な治療が必要です!」「あんな最悪な環境の部屋に閉込めておくと、彼の命はもう長いこと持ちません!」「お願いです!」「彼を病室につれていって治療して下さい!」
上官は下を向いてしばらくの間黙っていた。そして小さな声で言った。
「最悪の環境か・・・」
私の方に向きかえると、大きな声を出した。
「よし!」「そいつを病室につれて行こう!」「そのかわりそいつが治るまでの間、その分おまえが働くことになるがいいのか!」
「はい!」「彼の病気の治療のためなら、何でもします!」
「そうか!」
「何でもしますから、彼の身体が完全に回復するまで、病室で療養させてあげてください!」
「わかった!」
私はその上官と一緒に自分達の船室に向かった。上官は担架で彼を上の病室の前まで運ぶよう皆に命令した。狭く曲りくねった廊下や階段を、担架を揺らさないうに、そして彼を落とさないように注意深く進んだ。病室の前では衛生兵達が待っていた。ここで彼等が交代して友人を病室に入れた。扉の隙間から内部が見えたが明るく清潔そうで綺麗な部屋であった。私達はその病室の中へ入ることは許されなかった。すぐに自分達の船室に戻るように命令された。
私はほとんど休まず、部屋の他の仲間達の分まで働いた。仕事中も友人の身体の容体のことばかり考えていた。上官に彼の様子を聞いても、『大丈夫だ!』と言うばかりで全く相手にされなかった。部屋の連中の中には『殺されちまったんじゃねえのかな!』なんて言う者まで出てきた。仲間に何を言われても、私は彼の無事を信じていた。
上官が部屋に入ってきた。
「もうすぐ、母港に戻る!」「上陸の時に、預かっていた物と給料を渡す!」「国に帰っても、ここから逃げようなんてことを思うんじゃないぞ!」「逃げたら、逃亡兵として銃殺だ!」「住所と名前はちゃんと控えてあるからな!」「逃げられるなんて考えるな!」「軍には専門の機関があって、逃げた奴は草の根分けてでも捜し出すからな!」「見つけるまで、絶対に諦めんぞ!」「決められた日時までに必ず戻ってこいよ!」「絶対にだぞ!」「船が出た後に戻ってきたとしても、それは逃亡兵とみなされる!」「遅れるなよ!」「わかったな!」
「はい!」
甲板に出てみると、彼がそこに立っていた。彼は水色のパジャマを着ていた。いつもの汗と油で汚れたシャツを着た姿と比べると、まるで別人のようである。
「元気になった?」
「うん」「おかげでこんなに」「すっかり良くなったよ」
「よかったね」
「僕はもういいと思ったんだけど、念のためもう少し様子をみるとか言われて…」「仕事、忙しかったよね、きっと」
「大丈夫だよ」「気にする必要はないよ」 「これで、退院できるって」「休暇が終わったら、また第一線に復帰だね」
「本当はこんな仕事したくはないんだけどね」「……」 「いつも…、この船には戻りたくないって思っているんだけど…」
「さっきの話だと、どこまでも追いかけてくるとか言ってたけど」
「ああ、あれかい」「あんなの、ただの威しに決まってるさ」「俺達のような者を、軍がいちいち追いかけてくるわけがないじゃないか」「第一、金の無駄さ」
「そうかな」
「それより、僕と一緒に逃げないか」「こんなところにいると、何一つできないうちに殺されちまうぞ」
「僕はここが嫌いなわけじゃないし、それに母がいるから」「母には迷惑をかけたくないんだよ」
「そうか、お袋さんがいたんだっけ」「手紙を出すんだろう?」「ここからだったら絶対に大丈夫だよ」
「直接会いにいくよ」「汽車に乗ればここから一日ぐらいで行けるところだから」「出航までには充分間に合うよ」
「じゃあ一人で行くんだろう?」
「今回だけは、そうしたいんだ」「悪いね」
「気にしないで」「その方がいいかもしれない」「気をつけてね」
「有難う」
「こちらこそ」「僕のためにいろいろとしてくれて感謝しているよ」
船を下りるときに持物と給料とを受け取った。久し振りに見る懐かしい港の光景が目の前に広がった。私達は駅前まで歩いた。私はそこで彼にこう言った。
「また会いたいね」
「うんそうだね」
「そのときは、二人でどこかへ…」「でも…無理かな」
「そのときはそのときで、何とかなるよ」
「うん」
「じゃあ」
「じゃあ」
彼は人込みの中に姿を消した。私は切符を買い、時間がくるまでの間駅のベンチに座っていた。
列車はレールの上を快く走った。母に会えると思うだけで嬉しかった。自分の給料を早く母に手渡したかった。母が誰にも気兼ねすることなく暮らしていけるように早くさせてあげたかった。こんなに嬉しいことは生まれてから此の方全く経験したことがなかった。客車の揺れに身をまかせながら、今まで私を育ててくれた母の苦労をしみじみと思い起こした。母への感謝の思いで胸がいっばいになった。